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千葉地方裁判所松戸支部 昭和26年(わ)40号 判決 1958年9月22日

被告人 本田昌三

主文

被告人を死刑に処する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

東京都荏原区宮前尋常小学校卒業後、同都淀橋区角筈にあつた私立工学院工業学校を二年中退し、その後母の生家である千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村新宿の松本新蔵方に家族と共に疎開し、農業の手伝をしていたが、一時東京都荻窪所在の久保電機会社や埼玉県北葛飾郡南桜井村所在の農村時計工場の職工となり、また山田某と醤油樽の行商を営み、昭和二十三年三月頃から附近の溝口明、横山某等と穀類専門の闇屋を始め、次いで同年十一月頃からは、千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村砂南二、七五九番地古橋要蔵と共同出資のもとに闇屋を営み、同二十四年――四月頃これをやめて同年五月頃から東京都港区芝新橋二丁目三〇番地に店舗をもつて靴の卸売業をしていたマルヤス産業株式会社に外交員として雇われ、翌二十五年の四月末頃まで勤めて居たものであるが、既に十七、八歳頃から年長の闇屋と対等の取引をなし、マルヤス産業株式会社に就職後は会社の集金を横領し、しばしば浅草その他の料理店に出入して遊興に耽り、或は年長の未亡人と私通し、いまだ少年である頃から一升酒を飲み素行不良のものであるが、

第一、昭和二十三年三月下旬の午前十時過頃、窃盗の目的を以つて、千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村字新宿五、〇四八番地水越重太郎方座敷内に侵入し、同家の台所寄りの八畳間に置いてあつた桐箪笥の上の三つ並んだ小抽斗の真中の抽斗内から同人の所有にかかる現金一千百円位を窃取し

第二、東京都港区芝新橋二丁目三〇番地に店舗を有する靴卸売業のマルヤス産業株式会社に外交員として雇われ、得意先から販売代金の集金等の業務に従事中

(1)  昭和二十五年四月六日頃、浦和市高砂町二丁目六九番地飯田靴店事飯田吉雄方から集金した同会社の靴販売代金一万一千八百円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(2)  同年同月九日頃、東京都豊島区巣鴨二丁目三一番地ユニオン靴店事加藤玉曾方から集金した前同様の現金二千五百円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(3)  同年同月四、五日頃、浦和市高砂町一丁目一一六番地三正堂靴店事野尻忠三郎方から集金した前同様の現金五千円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(4)  同年同月七、八日頃、前同靴店から集金した前同様の現金二千円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(5)  同年同月十日頃、前同靴店から集金した、前同様の現金三千円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(6)  同年同月十三、四日頃、前同靴店から集金した、前同様の現金千円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(7)  同年同月十七、八日頃、前同靴店から集金した前同様の現金三千円を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(8)  同年同月二十一、二日頃、前同靴店から集金した、前同様の現金二千円を受取り、自己において、業務上保管中、その頃擅に着服横領し

(9)  同年同月二十五、六日頃、前同靴店から集金した前同様の現金千八百円及び株式会社富士銀行払額面三万円の小切手一通を受取り、自己において業務上保管中、その頃擅に着服横領し

第三、昭和二十五年五月五日夜、前記マルヤス産業株式会社の二階において、靴の売掛代金を集金した六万余円の横領に関し、中村秀子、村山弥太郎、稲本シゲ等から激しい追究を受け、その弁償に苦慮し金銭に窮した結果、前記古橋要蔵が闇屋を営み、小金を持つていることを知つていた被告人は、同家から金銭を窃取しようと企て、同月六日東京より帰宅し、同日午後十時過頃、かつて被告人方の隣家に居住し、その後、附近の川間村尾崎八五〇番地に新築移転し、飲食店を営んでいた、前田栄次郎方より自転車を借り受け、無燈火のまま、その自転車に乗つて午後十一時三十分頃前記要蔵方に到り、電燈をつけたまま就寝していた同家の様子を、表側戸袋の小穴からのぞき、更に、翌七日午前二時頃右小穴から同家屋内をのぞき、要蔵等家人が熟睡して居ることを確めた上、表雨戸の向つて左側から二枚目を外し、大日如来を安置してある八畳の部屋に入り、次で要蔵一家四人の寝ている隣室五畳の間と、右八畳の間との境に締めてあつた板戸のうち、表から二枚目の戸を表の方に開けて右五畳の間に入り、平素、要蔵方で現金を入れてある鼠入らずに近ずこうとしたとき、熟睡中の要蔵の妻秀世(大正十一年三月十七日生)が目をさまし、泥棒とかすかに叫んだため、ここにおいて被告人は同人等を殺害して金銭を強取しようと決意し、矢庭に所携の鉈(昭和二十六年領第十九号の四)を振つて同女の頭部顔面等を強打し、更に目をさまして起き上ろうとした要蔵(大正五年一月二十八日生)の顔面頭部等を数回強打し、次に泣き叫ぶ長男和成(昭和二十年八月二十七日生)の頭部を強打した後、泣き叫ぶ二男清(昭和二十四年六月二十日生)の頭部を布団の上から数回足にて強く踏みつけ、よつて右四名に対し、それぞれ頭蓋骨々折、脳実質挫創等の損傷を与えた上、更に要蔵と秀世の頸部をその場に有り合せた帯紐(昭和二十六年領第十九号の九、一〇)を以つて緊縛し、右両名の呼吸を困難ならしめ、因つて要蔵及び秀世をして脳障害兼窒息により、和成及び清をして、いずれも脳障害により、その場において即死せしめた上、屋内を物色して要蔵所有の現金少くとも二千三百円位を強取し、以つて所期の目的を遂げ

たものである。

(証拠関係)

判示冒頭の記載の事実について

一、被告人の司法警察員に対する昭和二十五年十二月九日附第五回供述調書(記録第四冊九四丁以下)の記載。

一、同、昭和二十六年一月六日附第八回供述調書(同記録一二一丁以下)の記載。

一、同、同年一月二十七日附第十六回供述調書(同記録一七五丁以下)の記載。

一、同、同年三月二日附第一回供述調書(記録第三冊一八二丁以下)の記載。

一、稲本シゲの昭和二十六年四月七日附検察官に対する供述調書(記録第一冊二一四丁以下)の記載。

一、証人稲本シゲの昭和二十八年四月二二日附第三十五回公判調書における供述記載(記録第六冊七五丁以下)。

一、伊藤シゲの昭和二十六年四月七日附検察官に対する供述調書(記録第二冊一一九丁以下)の記載。

一、証人伊藤シゲの昭和二十六年六月七日附第二回公判調書における供述記載(記録第一冊八五丁以下)。

判示第一事実につき

一、証人水越重太郎の昭和二十六年一月十二日附第二回公判調書(住居侵入窃盗事件記録第二四丁以下)における供述記載。

弁護人は右証人水越重太郎の供述の証明力を争うため(1)水越重太郎の検察官に対する供述調書謄本、(2)同人の司法警察員に対する供述調書の抄本、(3)水越重太郎の盗難未遂始末書謄本等を刑事訴訟法第三二八条の規定により証拠として提出したので、証人水越重太郎の当公判廷の供述の証明力について按ずるに、水越重太郎の検察官に対する供述調書謄本に同人の供述として記載せられておるところによれば、同人は「私は昌が手癖の悪い評判が立つている事を知つていますから空巣に入つたところを私の自転車のハンドブレーキの音であわてて飛出したのだと思いました。そこで天王さんの前の山上さんの所え妻を迎えに行き、実はこれこれと簡単に昌が空巣に入つた事情を話し、座敷の中を見る様にと告げて置いて自分は自転車で裏山の方へ追いかけて行きました、昌はどんどん逃げて行きました。私は一目見た時、昌であることがわかつて居るし、道が段々に悪くなり自転車で行くのも大儀になつたし、昌は若い者であるし、近所の事でもあるからそれ以上は追いかけずにあきらめました。

昌は近所に居るので、私は顔は良く知つて居ります。確かに空巣の犯人は昌に違いありません。

追い駈けるのを止めて帰つて来て見ると八畳の座敷の箪笥の抽斗が開けてありました。妻が来て見た時も箪笥が開けてあつたそうです。衣類その他の品物で盗られたものはありませんでしたが、百円札や十円札で現金合計千二、三百円がなくなつて居りました。箪笥の一番上の三つ並んだ小抽斗の真中に、ばらで入れて置いたので、その小抽斗が開いて居り金がなかつた訳です。

箪笥には錠はかけず、また昼間の事ですから家の戸締も無論してありませんでした。

現金が盗られた事については、警察のお調べがあつた時には申上げずにおき被害は無かつたと申して置きました。又盗難の当時警察にも届けを致しませんでした。

実は申しにくい事ですが、私は遊びが嫌いでない方ですから現金盗難の事等を届けて却つて遊びの事が警察から洗われる様になつては困ると思い黙つて居たのです。

最初警察のお調べがあつた時には盗難の日は、昭和二十三年暮頃の様に申上げて、その様な調書を作つて頂きました。はつきりわからなかつたので一応そう申したのですが、その後妻に聴いてみましたら、妻が申すには私方の盗難があつた日の四、五日あとに近所の後藤仲三方に昼間の空巣があり、その時の妻の記憶では小麦が五、六寸位の長さに伸びていた事をはつきり覚えているのでその事から考えてみると、私方の盗難のあつた日は、昭和二十三年の暮ではなくて昭和二十三年の三月末頃である事がわかりました。

私としては松本新蔵方は近所の事でありますから、昌の事についても、実はかばつてやり度いのが人情として当り前でありますが、今の裁判の規則の説明をして頂き、証人というものの大切な役割である事を良く納得がいきましたから有の儘の事を申上げるのです。実は今迄に何回かお呼出を受けて出頭しなかつたのも私が来なければその間に裁判が済んでしまい、証人に立つ事もなく松本方に対しても気まずい思いをせずに済むだろうと考えたからです。御手数をかけて申訳ありません。私のお願いは私が法廷で証人として本当の事を申述べても松本が気を悪くしない様にして呉れれば良いとその事だけが気がかりなのです。よろしくお願い申上げます。」と述べておることが認められる。この供述記載から見れば、水越が賭事が嫌いでないので現金盗難のことを届出ることによつて、かえつて自己の悪事を洗われては困ると思い、盗難当時に届出なかつたことや実害がなかつたように届出たことが認められるので証人水越重太郎の当公判廷の供述は証明力が十分あるものと認められる。

一、証人松尾りさの昭和二十六年一月十二日附第二回公判調書(住居侵入窃盗事件記録三七丁裏以下)における供述記載。

一、同証人の昭和二十七年六月二十五日附第二十一回公判調書(記録第五冊一五一丁裏五行以下)における供述記載。

一、後藤仲三の盗難届(住居侵入窃盗事件記録四六丁)。

一、昭和二十三年三月三十日附司法巡査作成の捜査見分報告書(同記録四七丁)。

一、昭和二十六年一月二十日附居森裁判官作成の検証調書(同記録六〇丁以下)の記載。

判示第二事実につき

冒頭記載の事実は

一、被告人の昭和二十六年二月二十六日附第五回公判調書における供述記載(同記録一二五丁裏以下)。

一、被告人の検察官に対する昭和二十六一月十一日附供述調書(同記録二三六丁以下)の記載。

(1)の事実につき

一、飯田吉雄の上申書(同記録一七五丁)。

(2)の事実につき

一、加藤玉曾の上申書(同一七六丁)。

(3)乃至(9)の事実につき

一、野尻忠三郎の司法警察員に対する昭和二十六年一月八日附第一回供述調書(同記録一七七丁以下)の記載。

一、証人野尻忠三郎の昭和二十六年三月七日附第六回公判調書における供述記載(同記録二五二丁以下)。

(9)の事実につき

一、鶴岡義男の司法警察員に対する昭和二十六年一月八日附第二回供述調書(同記録一八七丁以下)の記載。

(1)乃至(9)の全部の事実につき

一、被告人の検察官に対する昭和二十六年一月十一日附供述調書(同記録二三六丁以下)の記載。

一、中村貫一(昭和二十五年十二月十八日附)稲本捨次郎(同年同月八日附)稲本シゲ(同年同月二十二日附)の各司法警察員に対する供述調書(同記録一五二丁以下一七四丁)の各記載。

一、昭和二十五年五月五日附被告人よりマルヤス産業株式会社宛の念書(昭和二十六年領第十九号の一)と題する書面及び添付の内訳書。

横領金の費消関係につき

一、阿部効子、当利タネ、小川恵吉の各上申書(同記録一九二丁以下一九七丁)。

一、伊藤道子の司法警察員に対する供述調書(同記録一九八丁以下)の記載。

弁護人は判示第二の(8)の二千円は、昭和二十五年五月六日集金した旨主張するけれども、証人野尻忠三郎の前記供述調書によれば、同人は被告人に靴代金として三万円の先日附の小切手と現金一万八千円を支払つたのが最後で、その後は、被告人は全然野尻方に来なかつたもので小切手の方は支払日の一週間前に振出したので手合帳と取引銀行とを調べた結果、右小切手金は同年五月二日に支払われていることがわかつた旨の供述記載に照して弁護人の右主張は排斥する。

判示第三事実中

(一)  昭和二十五年五月六日午後六時頃より同月七日午前八時頃までの間に、千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村砂南二、七五九番地、古橋要蔵(大正五年一月二十八日生)同人妻秀世(大正十一年三月十七日生)長男和成(昭和二十年八月二十七日生)二男清(昭和二十四年六月二十日生)の四名が何者かに殺害せられた事実及び屋内が物色された形跡のあつた事実は、

(1) 平野英治の司法警察員に対する第一回供述調書(第一冊一四六丁以下)中、同人の供述として、昭和二十五年五月七日午前六時頃、家族と一緒に朝食を済まし、煙草を一服して苗床の処で手入れをして居ると、東の方で大声で山口喜八さんが、大日堂が血だらけだと怒鳴りましたので、私は夢中で飛んで行き、東風谷亀之助と一緒に要蔵さんの家え行き戸を開けようとし、近所の人が雨戸を押したりしていましたが、開きませんので、向つて右より二枚目の戸の下の方の破れた処より中をのぞきますと、要蔵の女房の秀世さんが向うを向いてるようで、血が手前の方に流れて居るようでしたので、私は驚いてしまい、その前で騒いで居りますと巡査が来たので巡査のいうように繩を張る手伝いをした旨の記載。

(2) 逆井勘吉の司法警察員に対する昭和二十六年三月三十日附供述調書(記録第一冊一七七丁以下)中、同人の供述として、去年の五月六日夜、要さん(古橋要蔵)が殺されたことは今でも、はつきり覚えて居ります。その殺される五月六日の夕方午後七時半過ぎ頃、私は自転車に乗り要さん方え行き、白米二斗を買い代金を百円札で十九枚、現金で千九百円を払つて午後七時五十分頃、要さんの家を出て八時頃家え帰りました。家え帰つて計つて見ると一升ばかり足りないので、大急ぎで要さん方え引返し一升足りないことを話すと、要さんは一升桝で計つてよこしたので、要さんの家を午後八時十分頃出て午後八時二十分頃家え帰りました。午後七時三十分頃要さんの家え行くと全部雨戸を締めてあつたので、鶏小屋の方の一枚雨戸の処から「今晩は」と声をかけると、要さんが返事をして中の錠を開ける様子もなく、雨戸を開けて呉れたので中え入りました。中仕切の板戸は全部閉つていて電灯は一つで一番右側の一枚目の所に背の高さ位の処え吊り下げて、ついていました。布団は右電灯の下辺に押入れの前寄りに一枚敷いてあり、妻の秀世は布団の上に頭を中仕切戸の方に、顔を押入れの方に向けて一番下の小さい子供を抱いて横になつて乳を飲ませて居りました。もう一人の男の子は、その足元の方で何か持つて遊んで居りました。私は土間の所の板の間え腰をかけました、秀世さんが起きて来ないので要さんが土間のコンロの上に沸いていた湯を持つて来て私にお茶を出してくれました。

私にくれた白米は土間のそばにある板の間の表側雨戸の戸袋寄りに南京袋に入れて二袋あつた内の一袋をよこし、残りの一袋は二斗位で、その分は金子さんにやるのだと要さんがいつて居りました。その時要さんは茶色の様な上衣の服に軍隊の茶色のヅボンをはき、シャツは矢張り軍隊のだと思います。私が白米の代金を百円札で十九枚払いますと、要さんは財布を出さずに、上衣のボタンを外して右手で札を掴んでシャツの左ポケットに入れる様でした、私が一升足りないので要さん方え引返すと、まだ寝ないで中に入り、そのことを話すと要さんはすぐ一升桝で計つてくれた旨の記載。

(3) 昭和二十五年五月七日附、司法警察員作成の検証調書によれば、検証の日時は昭和二十五年五月七日午前九時十分頃より午後六時三十分頃までの間で、検証の場所は、千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村木間ヶ瀬小字砂南二千七百五十九番地被害者古橋要蔵方居宅及びその附近で、同居宅は村道から約十五間北方に入つたところにある通称大日堂と呼ばれる住家を兼ねる間口四間半奥行三間の木造茅葺平家建で、屋内に入る個所は東側の土間の処と、南側の戸袋の脇と北側押入の脇の三個所で検証当時、東側と北側の出入口雨戸には各輪錠が掛つており、南側の戸袋の中には心張棒で戸締がしてあり、また、椽の下と屋内土間との仕切りは松板をもつて釘付けしてあり、その部分より出入の形跡は認められないし、土台下を堀つて侵入したと認められる場所も認められず、天井裏板上には煤埃が多く溜り、足跡その他の異状は認められない。屋根裏には煙出口等の作りなく、侵入個所はない、畳下の床板には破損の個所がない。また土間の、そばの幅三尺の板の間には表戸袋に寄つた所に南京袋入白米一斗七升位が置いてあり、外部から開けることはできなかつた。そこでやむを得ず、表雨戸の外れ易い個所である西端より右え二枚目の雨戸一枚を外側に外したところ、その内側の硝子障子が、一尺二寸位開放のままとなつて居たので、その個所はそのままとして表雨戸を順次一枚宛右側より最初外した溝の個所に送り、ヘ点(被害者寝室五畳間の南側で八畳間に一番近い処)雨戸部分まで来ると内側の硝子障子が開放してあつたので、そこから家族の寝室である五畳敷の座敷に入ると、布団二組を敷き全家族四名が西枕に、押入の方から、長男和成(当時五年)要蔵(当時三十五年)二男清(当時二年)要蔵の妻秀世(当時三十年)の順序で死亡して居るのを認めた。電灯は六〇ワット一灯だけで、要蔵の枕元辺上部鴨居より畳上四尺一寸の位置に吊り下げてあり、消灯の状態にあつたので試に「スイッチ」を捻つたら点灯した。死者四名の掛布団はほぼ整然と掛けてあり、要蔵の掛布団上には血痕附着の大人用中古灰色作業用上衣一枚あり、その上衣の右下ポケット内には現金十円札一枚一円札三枚五十銭札一枚十銭札一枚合計十三円六十銭が在中し、なお同掛布団上には大人用の古い国防色夏乗馬ズボン一着があつたが、この上衣とズボンは被害者要蔵が就寝前着用のものを脱衣したものと思われた。妻秀世の掛布団上には秀世が就寝に当り脱衣したものと思われる「モンペー」上衣一枚及び清のものと認められる血痕附着の「オシメ」二枚があつた。

右双方の掛布団を除き検するに、和成は、うつ伏せとなり外傷認め難く、要蔵は上向となり唇は腫れ上り、枕元には敷布団頭部辺より畳上に亘り鮮血流溜し、清は上向となり外傷認め難く、秀世は、うつ伏せとなり髪は乱れ、顔面及び同部分に当る敷布団は鮮血にまみれ、枕元畳上には前記同様多量の鮮血流溜し、更に被害者所有と思われる子供背負帯の一端にて要蔵の頸部を二巻きして強く緊縛し同帯の他端にて秀世の頸部を一巻きして同様強く緊縛してあつた。枕は夫婦用の二個で何れも外れ、要蔵の枕元に置かれた子供の玩具には何れも血液が附着していた。かくして、敷布団及び掛布団ともに要蔵の頭部辺と秀世の頭部辺にのみ血液が滲透し或は血液の附着が顕著で他の部分には殆んど認められない。

血液飛散の状況は別紙四、八図(ここには図面は省略する)に示す如く周囲の仕切板戸、襖、乾燥中の「オシメ」硝子障子並に奥八畳の間との仕切板戸の敷居等に米粒大程度の血液の飛沫が数個所に認められ、枕元の中仕切り板戸については秀世の方である表縁側の方から一枚目の板戸を除き、他の二枚目三枚目四枚目の中仕切板戸には何れも飛散せる血液が附着していた。

右八図によれば秀世の頭の方に近い隣室八畳座敷に血痕の飛沫が二個所あることが記載せられている。また、ワ点(土間の北にある)板の間には雑多な勝手道具が並んであり、丸型茶盆には箸が一膳と、白色茶呑茶碗二個及びアルマイト製つる付き急須一個を載せ、茶盆の外に白色茶呑茶碗一個あり、そのそばに桝二個と二つ折りになつた百円札一枚があつた。

茶箪笥内には「海老かに」の煮たもの、その他瀬戸物類が置いてあり、同茶箪笥の右下小抽斗内には金銭関係書類及び現金十円札二枚、一円札三枚、アルミ貨等二十二点合計三十三円九十銭が入つており、抽斗や戸は全て閉つていた。次に三尺に六尺の二段押入内を検すると、上段向つて右側の部分には「レザー」製鞄が「チャック」がこわれて口があいて内部の物が見える状態になつており、また黒革製「ハンドバック」が置いてあつたが、その内部は空であつて一見して、この右側の部分は犯人が物色したかと思われる状態であつた。上段左側は柳行李が置いてあつたが物色の模様が見受けられない、下段左側には「つづら」二個あり、その中には家族の衣類がしまつてあつたが内容は整然として物色の状況は認められない旨の記載。

(4) 鑑定人宮内義之介作成にかかる昭和二十五年六月二十六日附鑑定書によれば、

(イ) 古橋要蔵の屍体には、左耳上端の側頸部に約蚕豆大の挫創(イ)を存す、(イ)創に連絡して左耳上端に鳩卵大の表皮剥脱(ヘ)を存す、左眼上端に一致して左右に走る長さ約三・五糎の挫創(ロ)を存す、これら(イ)(ロ)(ヘ)創に続発して左側頭骨は広く陥凹骨折し、大脳底面の小挫創多数と蜘蛛膜下出血とを伴う、左口角附近に鳩卵大の挫創(ハ)を存す、右上口唇に蚕豆大の挫創(ニ)を存す、左頬部に小麦皮剥脱多数を散在す(ホ)、これら(ハ)(ニ)(ホ)の損傷に由来して上顎骨は骨折し、下左犬歯は脱落す、左手背には鶏卵大の皮下出血(チ)を存す、陰茎の亀頭並下面に小皮下出血(リ、ヌ)各一個を存す、頸部には紐を二重に纏絡緊搾しあり、索溝(ト)は頸部上界附近を水平に一周し、左右甲状軟骨上角の骨折を伴う、前記(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(チ)(リ)(ヌ)の各損傷は生前鈍器の打撲擦過等によりて形成せられ、(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)に作用せる鈍器は相当なる重量と稍広き作用面とを有するものと推定さる。(ト)の索溝は生前形成せられ、該部に纏絡しありたる人絹背負い紐の緊搾によるものと推定される。

本屍の死因は脳障害兼窒息なりとす、本屍の死後の経過時間を解剖時において大約十時間乃至二十時間なりと推定す。

(ロ) 古橋秀世の屍体には、前額部正中より右方約七・〇糎の髪際に発し後方に向う長さ約一八・〇糎(後に一〇・八糎と訂正)の裂創(イ)を存す、外後頭結節より上方約三・〇糎の部に蚕豆大の挫損(ロ)を存す、前額部正中より右方約五・〇糎の部にて略髪際に接して下左方より上右方に向う長さ約二・〇糎の挫創(ヘ)を存す、右眉毛外端に大豆大の挫創(ニ)を存す、これら損傷に由来して頭蓋骨は図示の如く骨折し(ここでは図は省略)大脳右頭頂葉より右側頭葉にかけて鵞卵大の挫創、その他に小挫創を形成し、広く蜘蛛膜下の出血を伴う、右下顎骨に近く約鶏卵大の表皮剥脱(チ)を存す、右手背全般に亘りて皮下出血(リ)を存す、右中指第一節背面に蚕豆大の挫創(ヌ)を存す、頸部には紐を一重に纏絡緊搾しあり、索溝(ヘ)は略甲状軟骨の高さにおいて水平に頸部を一周し皮下軟部組織間に小出血を伴う、前記(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)の各損傷は生前鈍器の打撲擦過等によりて形成せられ、(イ)に作用せる鈍器は相当なる重量を有するものと推定される。(ヘ)なる索溝は生前形成せられ、該部に纏絡しありたる人絹背負い紐の緊搾によるものと推定さる。本屍の死因は脳障害兼窒息なりとす。本屍の死後の経過時間を解剖時において大約十二時間乃至二十四時間なりと推定す。

(ハ) 古橋和成の屍体には、正中より右方約五・〇糎の前額部髪際に鶏卵大の皮下出血(イ)、左耳介上端に約雀卵大の皮下出血(ロ)とを存し、これら損傷に由来して頭蓋骨々折、脳挫創蜘蛛膜下出血等を招来す、(損傷に関しては同鑑定書の説明の項に詳記してある)

前記(イ)(ロ)の損傷は相当重量を有する鈍器の打撲等によりて生前形成せられたるも鈍器の種類形状等に関しては明かならず、本屍の死因は頭部打撲による脳障害なりとす、本屍の死後の経過時間を解剖時において大約二十四時間乃至四十八時間なりと推定す。

(ニ) 古橋清の屍体には、左側頭部には手掌面大の皮下出血(イ)を存す、前額部より眉間に至る間には広く皮下出血(ロ)を存す、これら損傷に相当して頭蓋骨々折、脳挫創、蜘蛛膜下出血等を存す、前期(イ)(ロ)の損傷は相当重量を有する鈍器の打撲等によりて生前形成せられたるも鈍器の種類形状等に関しては明かならず、本屍の死因は頭部打撲による脳障害なりとす、本屍の死後の経過時間を解剖時において大約二十四時間乃至四十八時間なりと推定す、

る旨の記載。

を綜合して認定することができる。

(二)  次に前記古橋要蔵外三名の殺害行為が被告人の所為によるものかどうかの点について検討。

被告人は、

(1) 昭和二十六年三月十三日附司法警察員に対する第四回供述調書。

(2) 同年同月十四日附同第五回供述調書。

(3) 同年同月十五日附同第六回供述調書。

(4) 同年同月十八日附同第七回供述調書。

(5) 同年同月十九日附検察官に対する供述調書。

(6) 同年同月二十二日附家庭裁判所裁判官に対する供述調書。

に於て次に摘録するように何れも犯罪事実を自白しておることが認められる。

(1) 被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十三日附第四回供述調書(記録第三冊、二五六丁以下二六〇丁)

これによると、被告人は、

「先達てお話したとおり要さんの家え、昨年五月六日の夜十一時半頃行つて「今晩は」と声をかけたのですが、返事がありませんでしたので、寝てしまつたなと思い、新宿え行き、それから二川の桐ヶ作の上原信次方え行きました。時間の点は先達て話したより、ずつと早く十一時半頃に要さんの家を出て十二時一寸前に新宿から桐ヶ作に行き着いたのは夜中の一時頃で、桐ヶ作を出て要さんの家に引き返したのは二時前後だと思います。それで要さんの家で、また二回程「今晩は今晩は」と呼んで見たのですが皆よく寝て居るらしく返事がありません。それで一つ中え入つて皆を驚かしてやろうと思い椽の下から入つて行きました。そこは大日堂と要さんの寝ておる部屋の中辺頃で、薪のない処からでした、椽の下えもぐり土間の処の「あげぶた」を二枚開けて出ました。そうして、座敷え上ろうとすると、おばさんが泥棒と怒鳴りそうになつたので私が「僕だよ」といつたのですが、布団をかぶつて仕舞い、まだ騒ごうとするので、私も恐ろしさの余り土間にあつた「鉈」を取つて一つ頭を叩いてしまいました。すると要さんが目をさまして起きようとしたので夢中になり、要さんも「鉈」で二つばかり頭を叩きました。頭のどの辺をたたいたか夢中でやつたので覚えて居りません。するとそばに寝ていた「和ちやん」が「わつと」泣き出したので、布団の上に乗つかつて「鉈」の平べつたい方で一つ頭を殴りつけ、それから「赤ん坊」の腹の方え乗つかつて踏潰してしまいました。要さんと、おばさんが苦しんで居るので、おばさんのそばにあつた、たしか、おばさんの着物か何かで作つた紐ではないかと思いますが、その紐で要さんの方から先に、おばさんも一緒に二人の、のどを締めてしまいました。おそろしさの余り早くそこを出ようと思つて入つた処まで来て、いつもお金を蔵つて置く鼠入らずの一番下の抽斗の戸棚の方に入つていた二千円余りのお金を盗つて「上げぶた」の処から逃げ出しました。井戸端で手を洗つて、自転車え乗り、夢中で家の方まで逃げ、ただ真暗で家え帰れないため、野田の清水公園え行つて夜明を待つて家へ帰りました。「鉈」は要さんの井戸の中え捨ててきました。司法警察員の「椽の下からは入れないと思うが」との発問に対して被告人は「問違いなく椽の下から入りました、薪の積んでない方の表の椽の下からもぐつて行き戸袋から奥え二枚目と三枚目の「あげぶた」を持ち上げてそこから入り逃げる時も、そこから出ました。「あげぶた」が開けられるということは前々から知つて居りました。その外要さんの家には、もう一ヶ所板の間の板が「あげぶた」の様にあがる処があります、それは鼠入らずの前です、」旨のべた後、違つた点も多少あるかも知れませんけれど、夢中でやつて仕舞つたのではつきりしません。最初から殺そうと思つて入つた訳ではないのですから夢中でやつた事で良くわかりませんので、要さんやおばさんが寝ていた順序や詳しい事は今晩よく考えたいと思います。申訳ないと思つて居ります何分よろしくお願いします」旨の供述記載がある。

(2) 被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十四日附第五回供述調書(記録第三冊二六三丁以下二七五丁)

これによると、被告人は「去年の五月六日の夜、要さんの家え自転車で二度目に行つたのは夜中の二時一寸前頃と思います。「今晩は今晩は」と呼んで見たが「シーン」として皆んなよく寝ておるらしく返事がないので、家の中え入つてお金を盗ろうと考えました。要さんの家は土間の三尺雨戸と裏の風呂場のそばの雨戸は輪鍵が掛けてあつて入ることができないし、表の雨戸の鍵は戸袋の所に心張棒が掛けてあつて入れないし、昨晩話した椽の下からも入れないということを前々から知つていました。家の中に入るには雨戸を外して入る外、しようがありません。土間の三尺雨戸は外れません、それから裏の雨戸も二枚きりですので外れないと思つて居ました。その外に戸を外して這入れるのは大日堂の方の表雨戸か、要さん等の寝て居る部屋の雨戸しかありません。

先達も話した様に要さんの寝て居る部屋には電気が点いて居るので、雨戸を外すと、燈火が外え洩れるのでそこから這入ることはできません。私が這入つたのは、大日堂の方の雨戸を外したのです、その戸は大日堂え向つて一番左側から三枚目頃だと思います。とにかく、両端の戸は外れないので、はつきりしませんが、三枚目位だと思います、戸を外すのに、自転車を置いた鳥小屋の前にあつた「板つぺら」を拾つて、それを戸の下の溝に差し込んで上え持ち上げる様にして雨戸を外しました。外した戸を左側の戸え立て掛けて置き、内側の硝子戸を開けたのですが、鍵は掛つて居りませんでした。板つぺらの大きさは大体長さが五寸位、幅が一寸位の板つぺらでした。これは用が済んで帰る時に洋服の右側の「ポケット」に入れて持つて帰り、川間の鉄橋の下の方の江戸川え捨てました。

硝子戸を開けて大日堂の座敷に這入り、硝子戸を元通りに閉めて、そろそろと中仕切の板戸の側え寄り、表から二枚目の板戸を音のしない様に静かに表の方え開けました。丁度自分の体の入る位の幅に開けたと思います、中仕切の戸を開けると、電気が大日堂の座敷と私の方え洩れましたが、要さん等の寝て居る部屋に気を留めて居たので、大日堂の部屋に何が置いてあつたか一寸わかりませんでした。すぐ目の前に布団が二た組敷いてあり、枕を板戸の方にして押入れの方から「和ちやん」と「要さん」が一つ布団に「赤ん坊」と「叔母さん」が一つ布団に寝て居りました。皆んな、ぐつすり寝込んでおるので、この隙に板の間の土間寄りにあつた鼠入らずから金を盗ろうと考え、少し腰をかがめて足音のしないように「そうつと」這入り一番表の方に寝ていた叔母さんの布団の横を廻つて足元の方え行つたときに、叔母さんが目を覚してしまいました。電気が点いていたので多分叔母さんが私の姿を見たようでした、私は鼠入らずの方を向いていたのですが振り返つて「僕だよ」と静かに声をかけました。すると叔母さんが布団を被ぶるようにして「かすれた」小さい声で泥棒と騒ごうとしたので「ピクット」した途端に「グーット」頭にきて夢中で土間え飛び下り、戸袋側の土間に立掛けてあつた「鉈」を右手に取つて急ぎ足で座敷に上り、布団を被る様にして寝て居る叔母さんを布団の上から頭を目がけて鉈で「ぶんなぐり」ました、一つだつたと思いますが後はわかりません、その時叔母さんが伸びあがつて布団の外え乗り出しました。

すると、要さんが目をさました様で起き上がろうとしたので、夢中で私は「赤ん坊」の布団の上を飛んで行き「赤ん坊」の腹の上に乗つたか、どうかわからなかつたが、「要さん」の顔だか頭だか、はつきりしませんが二つ程夢中で、ひつぱたきました。要さんは仰向けに寝て居りましたが、「ばたん」と枕の方えその儘倒れました。

その時要さんの向側の「和ちやん」が泣き出したので「和ちやん」の腹の上辺りの布団え乗つかつて鉈の「平ぺつたい」方で布団の上から頭を、ひつぱたきました。和ちやんは泣き止みました、和ちやんは右だか左だかわからなかつたが横に寝て居りました。和ちやんが泣き止んだときは、これは死んぢまつたと思いました。それから、また、布団の上を「赤ん坊」の寝て居る所えきて「赤ん坊」の腹の上え乗つかつて両足で「ぐんぐん」踏みつけてしまいました、とにかく、その時は頭が「ポーット」として何が何だか無我夢中でした。

「叔母さん」は顔を「赤ん坊」の方に向けて横に寝て「ウーン、ウーン」と唸りながら体を「ピクピク」動かして苦しんで居りました。その時の気持は夢中であつたので良くわからなかつたけれど「叔母さん」が苦しんでおるし、私がやつたんで、後で生き返ると結局わかつて私が困るので、咽喉を締めちやつたのです。その紐は叔母さんの枕元に置いてあつて、たしか叔母さんの着物か何にかで作つたものでした。鉈を紐のあつた近所に置き、最初に「叔母さん」の首を締め、次に「要さん」の首を締めました。「要さん」を二た巻、巻いたと思います。「叔母さん」も二た巻位だつたと思いますが、それは、はつきりしません、私の顔には血は一寸位しかつきませんでしたが、右手は手の甲の上まで血だらけになり、左手は指から手の甲の半分位まで血だらけになつたと思いますが良くはわかりませんでした。そして手は何かで拭いたと思いますが夢中でしたので覚えておりません、手を拭いてから押入の前の方え廻つて何時も「要さん」が、お金を、しまつて置く鼠入らずの下の向つて左側の抽斗を開けて、二千余円余りの現金を掴んで「ズボン」の「ポケット」に入れ「叔母さん」の枕元に置いた鉈を取つてから電気を消した様な気がします。その時は、とにかく、「ベロンベロン」に酔つ払つている様な気がして、はつきりわからないんです。中仕切の板戸は大日堂の座敷え出てから足で閉めました。そして這入つた所から出て、雨戸をはめました、戸をはめて出るまでは無我無中でわからなかつたけど、十分位の様な気がします。

昨晩は要さんの家の井戸で手を洗つたとか鉈を井戸の中え投げ込んだとかいいましたが、手も洗いませんし、鉈も捨てません、鉈は持つたまま、自転車で逃げて来て清水公園で夜を明かし家え帰つて来る途中、川間駅と南桜井駅の中間の江戸川の鉄橋の下、百メートル位行つた所から江戸川の中え板つぺらと一緒に投げ込んでしまいました。

私が「要さん」の家え行つた時に体につけて行つたものは前に見せていただいた、血の付いたという紺のセルの上衣と、黒の毛サージのずぼんで靴は今此処に履いて居る、このチョコレート色の短靴でした。雨戸を外して家の中え這入る時は靴は庭の椽側の上り口え脱いて置きました。靴下は思い出せません、別に帽子も冠らず顔も隠くしませんでした。

家え帰つた時間は只今お話しした江戸川え鉈と板つぺらを投げて行つたので、朝の六時頃になつたと思います。その晩着て行つた洋服とずぼんは、その後二日程してから家の裏で内緒で自分で洗つてしまいした。その時間ははつきりしませんが、何でもお昼が済んでからで、母ちやんや祖母ちやんも家に居ましたが知らない様でした。要さんの家から盗つて来た金は先程話した様に二千円余りでしたが、大体百円札で十円札も幾らかあつた様に覚えて居ります。

今思い出しても、あの時はただ、おそろしいだけで何が何んだかはつきり思い出せません。もうこれ以上お調べにならずに刑務所え廻して頂き度いと思います。鉈等というものをお調べにならずにこの儘裁判にかけて貰いたいと思います。

永い間「要さん」のことをお話ししたのですが何辺も申したように私と「要さん」とは親子の様に懇意に一緒に闇屋をやつて面倒を見て貰つたのに飛んでもない間違いをやつてしまつて腸を千切られる様な思いがします。父ちやん母ちやんにも顔を合はせる事ができません。くれぐれも、よろしくお願い致します」旨の供述記載がある。

(3) 被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十五日附第六回供述調書(記録第三冊二八一丁以下二八四丁)

これによると、被告人は「昨晩私が昨年五月六日夜「要さん」の家え這入つて使つた鉈は「要さん」の家のものだといいましたが、実はその鉈は柄の付いた自分の家のもので現在も家で薪割りに使つていると思います。平常は裏の風呂場の処にありました。その鉈は父ちやんが買つて来たのか、工場から作つて来たものかはつきりしませんが、一昨年(昭和二十四年)の九月か十月頃に家え持つてきました。

私が五月六日の晩、近所の前田さんから自転車を借りて要さんの家え行くのに家を出かけるとき風呂場の中にあつた鉈をズボンの左脇の腰の処に刃の方を下にしてズボンの中に入れ、ズボンのバンドで柄と刃の中間あたりを挾んで、上に背広を着て見えない様にし、家族の者に内緒で持つて行つたのです。その鉈は図に書いた様に刃が普通の様になつた処と頭の方にもあるものです。

要さんの家を出た時は、鉈を自転車のハンドルの上に載せる様にして右手でハンドルと一緒に握つて家まで帰り、裏手の井戸端え行つて水桶から柄杓で水をかけながら附いた血を洗い落しました。そして風呂場の外の戸の処に置いて両手と自転車のハンドルも洗い、知らぬ顔して野田の清水公園え行つてしまつたのです。何しろ真暗でしたので、どの位鉈や自転車のハンドルに血が附いていたかわかりませんでした。今考えて見ますと、鉈は要さんや叔母さん等を殺して了つてから直ぐ何かで血を拭いた様な気がします。

あの晩私が要さんの家え行つて鉈を使つた事は母ちやんや家族の者は全然知らないと思います。ですから先程お話した様に家では平気で薪割りに使つていると思います、なお、私の家には鉈は一挺しかありませんので、要さんの家から帰つてくる途中、余程何処かえ捨て様と思つたのですがつい持つて来てしまいました。度々お手数かけて申訳ありません」旨の供述記載がある。

(4) 被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十八日附第七回供述調書(記録第三冊二八六丁以下二九七丁)

これによると、被告人は「昨年五月六日(昭和二十五年)朝五時半頃に稲本社長の娘の中村秀子さんの家を朝飯も食べずに飛び出し、六時三十分頃に赤羽の後藤さんの家え行き朝飯を食べ、午後二時か三時頃、後藤さんと二人で浦和の野尻靴店え集金に行き二千円貰い午後五時頃大宮駅で後藤と別れ大宮の酒場で焼酎を二杯飲んでパンパン屋を一廻りしてから東武電車で川間駅え着いたのは午後八時頃で、駅前の鶴岡靴屋え行き、一時間程話しこんで、お茶を御馳走になり午後九時頃家え帰り、家で夕飯を済してから、おばあさんから「要さん」の話を聞き一寸一服してから十時頃鉈をズボンに挾んで前田さんの家え出かけました。そのとき着て行つたものは、古い方の紺セルの背抜きの上衣と中古の黒毛サージのズボンと白の毛糸のセイター、白のキャラコの様なワイシャツでした、ワイシャツの下には兵隊の冬のシャツ(カーキ色)を着た様に思つておりますがはつきりしません、靴下は、どんなのを、はいて行つたか、どうしてしまつたか思い出せません、靴は只今履いておるチョコレート色の短靴でした。帽子は冠りません。

私が家を出る時、何故、鉈を持つて出たかといいますと、前田さんの家から自転車を借りて要さんの家え行くんでも、野田え行くんでも、山道ばかりですし、それに夜更けですので「おいはぎ」が出るなんていう話を聞いているので、脅かされて体でも傷つけられたりするから持つて行つたのです、刀や短刀は家あたりでは無いのですから鉈を持つて行きました。前田さんの家で焼酎を一杯半だか二杯だか飲んで前に話したように自転車を借りて十時半頃要さんの家え出かけました。その時の気持は調書に書いて貰つたと思います。要さんの家え着いたのが、十一時半頃でした。先日話したように「今晩は今晩は」と二声三声要さんを起こしたのですが起きないので、戸袋の節穴から中をのぞいて見て直ぐ新宿の叔父さんの家え行きました。それから少し新宿に居てから桐ヶ作の叔父さんの家え行きました。その時の時間は十二時半頃と思います。最初は新宿え行つて泊めて貰おうと思つたんだけど新宿の家まで行つたら、お米がほしいという気になつたんです。ところが新宿では米が取れなかつたんで、此処まで来たんだから桐ヶ作え行つて見ようという気になりました。それは親戚だからです、桐ヶ作え行つたんですが泊めて貰う訳にもいかなかつたんです、仕方ないので桐ヶ作を出て家え帰ろうと思つて桐ヶ作を出たのですが夜中に家えも帰れないしするので要さんの家え行つて泊めて貰おうと思つたのです。

そして先達つて話した様に夜中の二時頃と思いますが、また、要さんの家え行きました。正面の門口から這入つて鳥小屋の前まで自転車に乗つて行き、スタンドを立てて置き土間の三尺雨戸の所で「今晩は今晩は」と呼んだのですが、「シーン」として皆んな良く寝入つて居る様でしたので、遂お金がほしいという気が起きたんです。

家の中え這入つて要さんにわかつてしまつたら「僕だよ」、皆んな良く寝てたから、起こしたんだが、起きないから、そこの戸を外して這入つて来ちやつたといえば、話が済むと思つて、こんな気持で家の中え這入るつもりになりました。

私が這入つたのは、先日話した大日堂の方の雨戸え向つて一番左側から三枚目頃でした。直ぐ這入る訳に行かないので戸袋の節穴から中をのぞいて見ますと、電気がついていて、中仕切戸の板戸の方を枕にして、皆んなよく寝て居りました。私は大日堂の方の雨戸を外すのに、家から持つて行つた鉈を出して雨戸の下の溝に頭の刃の付いた所を差し込んで、上に、持ちやげる様にして雨戸を外しました。外した雨戸は左側の戸え立て掛けて置き鉈をずぼんの腰に差しました、こんどは靴を脱いで椽側え上りました。そして雨戸の内側の硝子戸を開けたのですが、鍵はかかつて居りませんでした。音のしないように静にやりました。

大日堂の座敷え這入つて硝子戸を元通りに閉めました。座敷は真つ暗で何んにもわかりませんでしたので、両手を前の方に出して少し腰をかがめて音のしないようにそろそろと中仕切の板戸の側え寄り、表から二枚目の板戸に両手を掛けて、静かに表の方え開けました、丁度自分の体の這入る位の幅に開けたと思います。要さん等の寝て居た部屋の様子は前々から話したとおりで、押入の方から、和ちやん、要さん、赤ん坊、叔母さんの順に寝て居ました。少し腰をかがめて足音をしない様にそろつと這入り一番表の方に寝て居た叔母さんの枕元を通つて、布団の横を廻り、足元の板の間に出たと思う頃に、叔母さんが目をさましてしまいました。電気がついて居たので、多分叔母さんが私の姿を見つけた様でした。私はお金の入つて居る「鼠入らず」の方を向いて居たのですが、直ぐ振り返つて「僕だ」と小さな声で静かに声を掛けました。すると叔母さんが布団を被ぶる様にして、かすれた低い声で「泥棒」といつた様でした。途端に「ピクッ」としてグーット頭え来て無我夢中で鉈を右手で取り出してさつさつと布団を被ぶる様にして寝て居る叔母さんのそばえ行き、布団の上から頭を目がけて鉈でぶんなぐりました。一つだつたと思いますが後はわかりません。

その時叔母さんが伸びあがつて布団の外え乗り出しました。それからのことは先達つてお話しした通りです。手や鉈の血は叔母さんの枕元にあつた「オシメ」で拭いたんです。「オシメ」はそこえ、ぶんなげて来ました。私の顔には、血が付かなかつた様に思います、電気は帰りがけに「スイッチ」をひねつて消しました。要さんの家を逃げ出してからのことは前にお話した通りで、私が図に書きましたのでよろしくお願いします。なお洋服や、ずぼんに血の付いたのも図に書いた通りです。夜中の三時頃に家えついて鉈や手を洗つた時に井戸端で水を呑んだと思つております。

要さんの家から取つた金は全部で二千二、三百円だと思いました。別に改めて数えて見ませんでした、その金は鼠入らずの一番下の向つて左側の抽斗の中に「むき出し」の儘百円札で(九枚重ねて一枚を二つ折りにして挾んだもの)千円宛にしたものが二つと、その上に百円札が二、三枚と十円札が一枚か二枚あつたと思います。その外の品物は何も持つて来ません、要さんを「やつて」しまつて家の中にのそのそして居られないのですから、その他の所は何も探しません、お金をとつてしまえば、そういつた必要はなかつたのです。お金の使い先は東京え行つたり、煙草を買つたりしたんで、何処で、どう使つたかということははつきりしません。とにかく、その頃あんまり金がなかつたし、会社も辞めてしまい収入が無かつたので小遣銭に使つてしまいました。」旨の供述記載がある。

(5) 被告人の検察官に対する昭和二十六年三月十九日附供述調書(記録第三冊三五丁より四六丁まで)

これによると被告人は「私は要さん夫婦と子供二人を殺してお金を取りました。この事件については警察え来て調べられるようになつてから、成るべく罪を逃れようと思い、小川警部さんその他の方に色々嘘を申して来ましたが、どうしても私が申すことが通らないのと本当のことを申し上げてお詫びしようという気持とその両方で少しづつ本当のこと申し上げて来ました。何回も小川警部さんに申し上げて調書を取つて頂きましたが、私がやつたことに相違ありません。詳しいことは小川警部さんの調べの際に自分で思い出して図面を書いて説明し、調書を取つて貰つた通りであります。それを、もう一度検事さんに申し上げます。

昭和二十五年五月五日の晩は、東京のマルヤス産業の中村秀子さんの家え運転手と職人と私の三人で泊りました。会社の集金を費い込んだ事について、社長の稲本さん達に私が弁償するという念書を書かされたのでありました。六日の朝秀子さんの家を出て、後藤伝三郎方え寄り、朝飯と昼飯を御馳走になり、午後から浦和の野尻靴店え集金に行き現金二千円だけ集め、その中から千円を後藤にやり、あとの千円は自分の小遣二三百円位と一緒にして大宮え行き、鰯の罐詰三つ位を百円出して買い、遊廓の近所で焼酎二杯呑んで二百円近く払い遊廓の中を一寸覗いて見たが、その日は丁度土曜日で父ちやんが東京から尾崎の自分の家え帰つて来る日ですし、それまで三、四日続けざまに東京え泊り自宅え帰らなかつたので、また、遊廓え泊まれば父ちやんから叱られますから遊廓え泊りたかつたけれども、それをやめて鰯の罐詰を父ちやんの御みやげにして川間村え帰りました。川間駅え降りたのは夜の八時頃だつたでしよう、それから鶴岡さんえ寄り一時間位話し込んでから自宅え帰り、罐詰を買つて来たよと母ちやんにいつて渡しそれから一人で晩飯を食べました。野田のパンパン屋え遊びに行きたくなり、お勝手のお風呂場の脇にあつた鉈を持ち出しズボンの前左側に金の方を中に入れ柄を外に出る様にして落ちない様にバンドで締めました。自宅の自転車は空気が抜けるので、まづいから借り様と思つて前田さんのとこえ行きました。おばさんが出て来たので焼酎一杯半か二杯位をせんべいをさかなにして飲み、ところてん、を御馳走になりました。御飯を食べた後なので飲みたい訳ではなかつたが自転車を借りるのに具合が悪いから、そのために飲んだのです。自転車を借り焼酎等の代金を百円いくらか払いました。おばさんには野田え遊びに行くから明日の朝まで貸して呉れと申した様に思います。お金を払つてから、ふところの金がせいぜい八百円位であつたことに気がつき、パンパンを買えば六百円位はかかるし、そうすれば明日から小遣銭もなくなつてしまうので野田行きをやめる気になりました。前田さんのところにいる間にやめる積りになつたのです。そこで久し振りに要さんのところえ遊びに行く気になりました。要さんのところえは闇屋をやめてマルヤスの会社え勤める様になつたから一年近く遊びに行つた事はありません。六日の晩自宅え帰つた時に、おばあちやんが今日要さんのところえ米を二升買いに行き、暫くぶりだといつて、お茶なんか飲んで大分御馳走になつたが、昌ちあんにも、たまには遊びに来る様にといつていたということを申していたのを急に思い出し、要さんのところえ行く気になりました。

前田さんのところを出たのは十時半頃かと思います。自転車で県道の方え出て、それから先は小川警部さんに申し上げた様な道順で真直ぐ要さんのところえ行きました。鶏小屋の脇の入口から「今晩は」と声をかけたが返事がないので戸袋の小さな穴から中を覗くと皆んな良く寝ている様でしたから、起こすのも悪いと思い新宿の松本新蔵方え行きました。初めは泊めて貰う積りで行つたところ向うえ着いたら物置に米があることを思い出し、少し取つてやろうという気になり、垣根を越そうとしたら犬に吠えられたので、とるのをやめました。その時ここまで来たのだから桐ヶ作の上原信次方え行つて米を取つてやろうと思い、また、自転車で、そこえ行きました。物置の鍵をがちやがちややつてみたが、どうしても、うまく開かないので此処も諦めました。自転車へ乗り自宅え帰えろうかとも思つたが、夜中に帰ると何処え行つたと叱られては困ると思つたので要さんのところえ泊めて貰う気になり、また、要さんのところえ引返えして来ました。前と同じ様に「今晩は」といつたが返事がなく戸袋の小さな穴から覗えて見ると、良く寝ている様子なので、その時急に要さんは闇屋だから一万円や、そこらは持つていることを知つて居るので、この金を取つてやろうという気になりました、夜中の二時頃でありました。

入口の鍵が掛つているので裏の方の入口は、たしかめて見なかつたが何処も開くところが無いので、雨戸を外して入る気になりました。自転車は鶏小屋の脇え置きました。大日堂の方の向つて左から数えて二枚目だか三枚目だかの雨戸の下に持つて行つた鉈の先を押し込み上の方え一寸こぢあげると直ぐ外れました。外した戸を隣りの戸に立て掛けて置きました。中のガラス戸は鍵が掛つていなかつたから自分の体が入れる位の幅に、そうつと開けました。はいていたチョコレートの短靴をぬいで靴下だけになり、鉈はもと通りズボンのバンドの下に押し込み中え入りました、要さんのいる座敷の方には電気がついていますが大日堂の方は中仕切の板戸が締つているので暗くて良くわかりません。腰を少し、かがめて、そろつと歩き表から二枚目の板戸を両手を当てて音のしない様に表の方え少し引きました。自分の体が入る位の幅だけ開けたのです。中を見ると表側の方におばさん、赤ん坊、要さん、和ちやんという順序で板戸の方を頭にして良く寝ている様でした。そこでおばさんの枕元から脇を通り土間にある、鼠入らずの抽斗の中に良くお金を入れて置きますから、それを取ろうと思い、おばさんの足元から板の間の板の上にのり、鼠入らずまで一間か、そこらの近さになりました。その時おばさんが目をさましたらしく、かすれた様な小さな声で泥棒といいました。私は「僕だよ」といいました。そして、あやまれば、その儘済んでしまうと考えたのです。ところがおばさんは、また、もう一度かすれた様な声で泥棒といいましたから、私はかあつとして夢中になり、鉈を右手に持ち、刃の方を下に向けて、寝ているおばさんの頭を力を入れて引つぱたきました。おばさんは、うーんと唸つて体を少し、のり出し横向きになりました、すると、要さんが目をさまして起き上がろうとしたから布団の上を飛んで行き要さんの頭を矢張り鉈の刃の方で力を入れて引つぱたきました。おばさんの方は一回撲つたと思います。要さんの方は一回ではなく二回位であることは良く覚えて居ります。要さんは上半身を少し起き上つたところを引つぱたいたので、どさんと仰向けに倒れました。すると、要さんの隣り押入れ寄りの方に寝ていた和ちあんが、わあつと泣き出しました。そこで今度は鉈の平な方があたる様な恰好にして、和ちあんの頭を一回引つぱたきました。和ちあんは泣きやみ横向きに倒れました、それから布団の上から赤ん坊の腹のあたりを、めがけて両足でぐいぐい踏み付けました。赤ん坊は仰向きになつて居り、死んだ様でした。おばさんは未だ死に切れずに少しうめく様な声を出しぴくぴく手を動かしていましたから、おばさんの布団のそばにあつた紐を取つて、おばさんの首え一巻か二巻か巻き付け力を入れて締めて結びました。それから、その紐のもう一つの方を要さんの首にやはり二巻位巻き付けて縛りました。紐で縛る時には、おばさんのそばえ鉈を置きましたが、紐で二人を縛り終つてから布団の脇にあつた、おしめで鉈の血と自分の手についた血を拭きました。それから和ちあんと押し入れの間を通つた様に思うが、そこわはつきりしません。とにかく、鼠入らずの抽斗を開け向つて左側の抽斗だと思うが、その中からお金を取り、ズボンのけつのポケットえ入れました。お金は全部で二千三百円位だつたと思います。百円札を十枚一束にしたのが二つと、その上に百円札が二、三枚と十円札が一、二枚あつた様に思います。

それから鉈を手に持ち電気のスイッチをひねつて消し、開けた儘にして置いた中仕切の戸の間から大日堂の方え出て開けてあつた板戸を足で動かして締めました。それから元の開けて置いた雨戸のところから外に出て元通り雨戸を締め靴をはき、鉈を持つた儘自転車え乗り、夢中で自宅え帰りました、要さんのところにいたのはほんの僅かで十分かそこらだと思います。井戸の水桶に水をくみ、それで手と鉈を良く洗い、また、自転車のハンドルを、ひしやくで水を掛けて洗いました。鉈はお風呂場の外え置きました。未だ夜中の三時頃らしく時間があるので清水公園え行き、夜が明けるのを待ち六時頃自宅え帰つて来ました。母ちあんには上衣をぬいで自転車のハンドルに掛け、夕べは前田さんのところえ泊つたといつておきました。それから直ぐ前田さんえ行き自転車を返えしました。清水公園で、あかるくなつた時に上衣の右の袖口あたりと、ズボンの裾の方に少しと膝の上の方に少しと、血がついていましたから自宅え帰つてからズボンと上衣をぬいで押入れに押込み、それからは別の上衣とズボンをはいていましたが二日位経つてから家の人にわからない様に血のついた上衣とズボンを自分で洗つて乾かしました。その上衣は私がその後東京の鶴岡靴店え住み込む様になつたときに父ちあんに呉れました。ズボンは東京で、はいて居りました。両方とも今度警察え厄介になる様になつてから警察に出しました。小川警部さんに見せて貰つたのが、その上衣とズボンに相違ありません。

要さんの座敷や土間にあつたもので、私が覚えて居るものは詳しく小川警部さんに申し上げました、私がその晩初めて気が付いたものは、玩具でありました、セルロイドの様な物で丸つぽいものでありました。

以上私が思い出して、できるだけ、ありの儘に申し上げた積りです、小川警部さんやその他の人達から、あすこに何かあつたとか、ここが、こうであつたとか教えられて申したのではありません。」旨の供述記載がある。

(6) 昭和二十六年三月二十二日附少年本田昌三の家庭裁判所裁判官に対する供述調書(記録第三冊四七丁より五八丁まで)

これによると同少年は、

「昭和二十五年五月六日の夜、私は野田市内に女を買いに行こうと思い、鉈を持ち自転車に乗つて家を出たのですが、女を買つてしまうと明日からの小遣銭が無くなつてしまいますので止める事にし、久し振りで要さん事古橋要蔵さんの処え遊びに行く気になりまして同人方に自転車を走らせたのです。同人方に着いたのは午後十一時半頃と思います、「今晩わ」と声をかけましたが返事がありませんので、戸袋の小さな穴から家の中をのぞいて見ますと皆んな良く寝ている様でしたから起こすのも悪いと思いまして、家え引き返そうとしたのですが、もう時間も大部遅いので、今から家に帰ると家の人に怒られると思い、おぢさんの家え行つて今晩泊めて貰おう考えたのです。それで同人方え行つたのですが、同家の物置には米がしまつてあることを思いだしたので、盗んでやろうという気になりましたが、犬に吠えられたので盗むことができませんでした。それから今度は、おばさんの家え行つて泊めて貰おうと思い同家え行つたのですが、やはり物置に米があると思つて、それを盗もうとして物置に行きましたところ、鍵が掛つておりましたから、ガチャガチャやつたのですが、どうしても開きませんので、此処でも盗むことを諦めました。これから家に帰ると叱られると思つたので、何処かに泊まらなければならないのですが、おぢさんの家も、おばさんの家も米を盗もうとしたのに泊めてくれということは気が、とがめてできませんので、要さんの家え泊めて貰う気になり、再び同人方え引き返したのです。そして、やはり前と同じ様に「今晩わ」と声をかけたのですが、返事がありませんので、戸袋の小さな穴から家の中を覗いて見ますと要さんもお内儀さんも和ちあんも赤ん坊も皆んな良く寝ている様子ですので、起こすのも悪いと思いました。家の中は明るく電気がついておりました。その時要さん達が寝ている座敷に続いた板の間にある鼠入らずが目につきました。私が以前同人方に出入りしていた頃、同人は何時も、その鼠入らずの抽斗にお金を入れて置く事を思い出したので、その時お金を盗もうという気になりました。その鼠入らずは、何も塗つてない白木のものでした。それから大日堂の方に行き、そこの表雨戸を外そうと思い、持つて行つた鉈の先を雨戸の下に押し入れ上の方に一寸こぢ上げると直ぐ外れたので、その雨戸を隣りの雨戸に立て掛けて置きました。内側の、ガラス戸は鍵が掛つておりませんでしたから、わけなく、開きましたので、そおつと自分の身体が入れる位の幅に開けまして鉈を持つた儘家の中に入りました。それから要さん達の寝ている部屋と大日堂の中仕切りの板戸を開けて要さん達の寝ている部屋に入りました。

要さん達の寝ている部屋には電気がついていたので、板の間にある鼠入らずから金を盗ろうと思い、その鼠入らずの近くまで行きましたところ、お内儀さんが目をさまし「泥棒」といいました。そこで私は「僕だよ」といいましたが、お内儀さんは、なお、布団を頭の方にかぶる様にして、一言か二言か「泥棒」といいましたので、私は頭が、かつとして夢中で手に持つていた、鉈の刃で同女の頭を力一杯殴り付けました。同女の頭を殴つたのは一回だけだつたと思います。その時、要さんが目をさまして、上半身を起こしましたので、やはり同人の頭を鉈の刃だつたか、どうだつたかで二回位力一杯に殴り付けました。同人を殴つたのは確か二回だつたと思います。そうしたら同人は、どさんと仰向けに倒れてしまいました。すると和ちやんが急に泣き出したので今度は同人の頭を、やはり鉈で殴り付けました。それから赤ん坊の腹を両足で四、五回踏みつぶしました。和ちやんと赤ん坊は死んでしまつた様でしたが、お内儀さんは未だ死に切れない様に少し動いておりましたので、鉈を布団の側に置き、そこにあつた細紐を同女の首に巻きつけ締めつけました、それで同女は動かなくなつてしまいました。その紐の続きですか或は同じ紐が二本あつたかは、はつきり記憶がありませんが同じ様な紐で要さんの首を巻きつけ締めつけました。同人は紐で締める前、すでに動きませんでした。巻きつけて縛つた紐は要さんのも、お内儀さんのも、その儘にして置きました。

締め終つてから確か赤ん坊の、おしめ、と思いますが、それで鉈と手についた血を拭きました。それから鼠入らずの抽斗を開け、その中から確か二千三百円位だつたと思いますがそのお金を盗みました。盗つた金の中には十円札が一、二枚あつたと思いますが後は全部百円札でした。それから鉈を手に持ち電燈のスイッチを切つて、電燈を消してから開けた儘にしてあつた中仕切の板戸の間から隣りの部屋え出てその板戸を足で締めました。後は最初入つた処から外え出て、ガラス戸を閉じ、雨戸を元通りに締めました。そして鉈を手に持つたまま自転車に乗り家え帰りました。家に帰つてから井戸の水で手と鉈に付いた血を良く洗いました。自転車のハンドルにも水を掛けて洗いました。鉈は井戸水で洗つてから家のお勝手に置いときました。家の人を起こすと叱かられると思いましたので、それから野田の清水公園に行き、夜の明けるのを待つて夜が明けてから家え帰りました。家え着いたのは、この朝六時頃でした。夜があけて明るくなつてから気付いたのですが、ズボンの膝の下の方と上衣の袖口に血がついていましたので家え帰つてから上衣もズボンも着替えました。脱いた上衣とズボンは丸めて押入れの中に突ん込んで置きましたが、二三日過ぎて自分で水洗いして乾かしました。裁判官の「其許は要さん一家四人を殺して金まで盗つたという非常に悪い事をした事になるが、その事について今どう思つているか」との質問に対し、被告人は「要さん達に申訳ない事をしてしまいましたし、家の人にも心配をかけましたので一日も早く出て一生懸命働いて要さん達の供養をやりたいと思います。また家の人達にも安心させたいと思います」旨の供述記載がある。

(三)  弁護人は

(1) 被告人が司法警察員、検察官及び家庭裁判所裁判官になした自白は、被告人が逮捕勾留以来百十日以後になされたもので、その間殆んど連日連夜、苛酷な取調を受け、いわゆる刑事訴訟法第三一九条、憲法第三八条二号の不当に長く抑留又は拘禁された後の自白であるから証拠とすることはできない。

(2) 被告人は昭和二十六年三月十日、司法警察員から着衣やワイシャツを示され、これに人血が附着している、何でつけたか説明しろ、その説明が出来なければ犯人に間違いないと激しく責め立てられたため、当時すでに検挙後百七日を経ており、その間連日苛酷な取調を受け、心身ともに疲労困憊その極に達し、思考の能力を失つたものであるから、被告人の司法警察員に対する自白及びこの自白を、そのまま踏襲した検察官並に家庭裁判所裁判官に対する自白は任意になされたものでない疑があるから証拠とすることはできない旨主張するので先づ

(1)の主張につき按ずるのに

被告人は昭和二十五年十一月二十七日、本件の水越重太郎方、住居侵入窃盗未遂及び別件斎藤初太郎に対する強盗殺人の嫌疑で逮捕せられ、同月二十九日東葛地区警察署野田警部補派出所に勾留せられ、昭和二十六年二月二十八日保釈許可決定があつて、同年三月一日釈放されたが、同日更に本件強盗殺人の嫌疑で再逮捕せられて同月三日勾留されたことは――本件記録編綴の被告人に対する逮捕状、勾留状、保釈許可決定書の各記載及び被告人、弁護人等の当公判廷の陳述に徴して明瞭である。而して被告人は同年同月十三日、十四日、十五日、十八日各司法警察員に、同月十九日検察官に、同月二十二日家庭裁判所裁判官に、それぞれ自白したことは先に摘録の各供述調書の記載により明かである。よつて被告人が本件強盗殺人事件を初めて司法警察員に対して自白したのは最初の逮捕後百七日後で、検察官に対し自白したのは百十三日後、家庭裁判所裁判官に対し自白したのは百十六日後であることは数理上明かであるが当初は他の被疑事件の容疑で取調べをうけ一旦釈放されて後、本件強盗殺人事件の被疑者として再逮捕され、再逮捕後は係官の本件を中心とする取調べとなり、再逮捕後十一日目に至り第一回自白を見たことは記録上これ亦容易に窺知し得るところである。

而して証人小川洋平、同藤崎源之助の当公判廷の各供述記載によれば、本件は犯人不明の事件で現場に何等の証拠と目すべき遺留品も指紋等もなく、しかも被害者四人が殺害せられており、捜査上極めて難件であつた事を推測するに難くない。捜査官としては被疑者の供述に基き、各般の裏付捜査もしなければならず、殊に本件被告人のように頑強に事実を認めない(稲本シゲの検察官に対する供述調書(記録第一冊二一四丁以下)の記載によつても明かである)被疑者に対してはその捜査は、恐らく容易なものでなかつたことは右証人の供述によつて推測することができる。本件被告人の自白が、被告人の逮捕後三ヶ月余を経ておることは事実であるが、本件事件が難件であることや前述の如く他の被疑事件について、その取調べに相当の日時を要したること勿論にして、これに次いで逓次遅滞なく(新刑訴の規定から見るも捜査の段階における手持時間は極めて短期間である)取調に当つた後に為され、しかも取調に際しては、憲法の精神を体して人権を尊重し、無理な取調をしたことが無かつたことは前記証人小川同藤崎の各供述記載によつて明かである。以上の事実に鑑み被告人の本件自白は、この程度では、不当に長い抑留又は拘禁された後の自白に該当しないものと認めるを相当とする。よつてこの点に対する弁護人の右主張は採用しない。

(2)の主張につき按ずるに

第一、(い)被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十日附第三回供述調書(記録第三冊二五二丁以下二五四丁)についての検討。

この供述調書によれば

被告人は

「洋服に血がついたとか種々な事を三日だけ考えさせて下さい、全部白か黒かをつけたいと思います。一度に聞かれてもわかりませんので良く考えたいと思います。自分では白だと思うけど洋服やワイシャツに血がついて居たとなつて、それに解答出来なければ要さんを殺したと思われても止むを得ないと思うのは、自分の本当の気持です。自分は要さんを殺さないと思つて居りますが、若し洋服とワイシャツの血の事が解答できなければ、要さんを殺したと思われても仕様がないと思つて居ります。ですが洋服とかワイシャツとかの血が思い出せたらこんな良い事はないと思います。

そんな訳で三日考えさせて頂いて解答し度いと思います。私の頭は今のところ何を考えてもポーとして居て駄目なんですよ、ですから冷静になつて良く考えさせて頂き度いと思います。若し考えが出ない場合止むを得ないです、要さんを殺した犯人といわれても仕様がありません。

それは自分では決して要さんを殺さないという事は一番自分が良く知つて居りますが、而しそれに対する証拠とか証明が自分でも出来ない、要さんを殺さないという証明が出来ないのです。それでこれから三日間考えて洋服に血がついたとかワイシャツに血がついて居たとか、それが解答できなかつたら、今迄嘘をついたり又刑事さん方に迷惑をかけたり、参考人として呼ばれる人達もみんな迷惑をかけるんです。

だから三日考えてから要さんを殺した犯人だといつて私が出ます。それは勿論、誰れが殺したのかわからないけれども、而し何時かはわかる時期が来るぢやないかと思つて居ります。

こうやつて居て決りがつかないで、一年も二年も居るより今の自分としては考えて考えつかなかつたら、要さんを殺したのは私ですと言つて出た方が余程良いと思います。勿論裁判所の偉い人が決めるんであつても矢張り神様でなく人間ですよ。ですから誰れが殺したともはつきりわからないと思います。

しかし殺した人も必ず何時かはわかる時が来ると思うです、それも世の中のめぐり合せであつて見れば仕方がありません。洋服やワイシャツに血のついたことが、こういつた場合になつて考え出せないという事はやはりめぐり合せだと思つて居ります」と記載せられておる。

よつて右被告人の供述記載について按ずるに、

右記載には被告人の供述部分のみが記載されており取調官の如何なる質問取調の下に斯様な供述がなされたのか、この調書自体からは正確な事はわからない。ただこの調書の記載自体から見ると、洋服やワイシャツに血が付いて居た事に関連して、被告人と取調官との間に質問応答があつたことは推測することが出来る。「洋服やワイシャツに血がついて居たとなつて、それに解答出来なければ要さんを殺したと思われても止むを得ないと思うのは、自分の本当の気持です」という供述は、単なる被告人の気持を表現したとも看取せられるし、またその反対に取調官において「洋服やワイシャツについた血のことに関して、被告人が筋道の通つた弁解ができない場合は、被告人は要蔵一家強殺事件の犯人として認定せられてもやむを得ないだろう」という意味のことをもらしたのを、被告人が肯定したため被告人の供述として記載されたとも考えられないことはない。然しこの推測は最も悪意に満ちた憶測といわなければならない。仮りに被告人が自分では洋服やワイシャツの血のことが解答できないから強殺の犯人として出ますといつて見たところで、それだけでは自白として何等の価値がないので、この位のことは捜査官として十分承知しておるものと認めるのが相当である。従つてこの推測は妥当ではない。

次に同供述調書中の「自分は決して要さんを殺さないということは一番自分が良く知つておりますが、しかし、それに対する証拠とか証明が自分でもできない、要さんを殺さないという証明ができないのです」という供述は、その背後に殺さないと否認されるなら、そのアリバイを出したらよかろう真偽につき取調べてやるからという程度の質問があつただろうとも推測せられる。被告人に対し殺さないという反対証拠を要求してみても、被告人において自分はやらないから反証はありませんといえばそれですむ訳である。被告人が自分には殺さないという反証が挙げられないから犯人として出ますといつて見たところで、それは何らの具体性がなく自白として無価値であつて、この道理を捜査官として知らない筈はない。従つてこれは、むしろ、筋の通つたアリバイを促した程度のものと認めざるを得ない。次に「だから三日考えてから要さんを殺した犯人だといつて私が出ます」とある供述は、これまた、取調官が被告人に対して「三日考えて洋服やワイシャツに血がついていたとかという解答ができなければ、被告人を要蔵一家皆殺しの犯人として認めるから犯人として出ろ」といつたものか、または三日間の考慮の期間を要求した代償的意味において述べた被告人の一方的供述記載であるか否かこの記載だけでは正確なことはわからない。

ただ右第三回供述調書は被告人のいつたとおり記載されたことは推測ができる。

被告人は明々白々、争うことの出来ない事実に対しても言を左右に託して争い平気で嘘をいう癖がある。

例えば、

(イ) マルヤス産業の集金横領事件について見るに、

稲本シゲの検察官に対する供述調書(記録第一冊二一四丁以下)によれば「私は稲本捨次郎の妻で、本田昌三がマルヤス産業の金を使い込んだ事について、本人を呼寄せて色々尋ねた結果、本人も嘘がつききれずとうとうあやまつて働いてぼつぼつ返すという念書を入れた事がありますからその事について申上げます。それは昭和二十五年五月五日の事で、私方の事務所の二階応接間に本人を呼び寄せ、私と娘秀子と村山弥太郎の三人立会の上、村山が調べて来た集金の金額を元にして問詰めました。初めは、ただ強情に黙つていましたが、いよいよ問い詰められまして、終には秀子に渡した等といい、秀子から、何処で渡した等と責められ、弁解がつかないので大宮駅か何処かで酔払つて寝た時に盗られてしまつたのかなあ等ともいい、まるで責任のがれの様な事を申して、なかなか謝りませんでした。本田は若いのに一升酒を飲み時々女遊びもするらしく、私の方から見れば月給だけでは到底そんな飲み喰いや遊び等は出来る筈のものではないのですから私も見るに見兼ねて正直な事をいう様にといつてやりました。そういう訳で夕方の五時頃から夜中の十一時頃迄ぶつ続けで責めた処、終には泣き出してやつとの事悪かつたと謝り念書を書いたのでありました。然し本田の方から素直に悪う御座いましたと心から謝つて来た訳ではないので、盗られたとか紛失したのぢやないか等といい乍ら渋々責任を負いますという事になつてけりがついたのです、私は若い者の間違いですから清く謝れば、それでよいのでありましたが、見えすいている嘘をついて強情を張つて何処迄も通そうとするのに全くあきれてしまいました。とても十九やそこらの若い者のやり方ではありません。私等が問い詰めた時に弁解が出来なくなると真青になり、それでも黙つて口を開かずに居りましたが終にはとうとう涙を流し乍ら渋々謝つたのです。初め村山が問い詰めた時は、黙り込んで一切口を開かず、ふてくさつた様な様子をしていました。村山も腹が立つたとみえ、使つたなら使つたと、はつきりいえと申しました。私も腹が立ち男らしくいいなさいと申しました。そういう訳で、やつとこせと白状したのでありました。」と述べて居り、又同人は証人として昭和二十八年四月二十二日第三十五回公判廷においても右と同趣旨の事を供述しておる(記録第六冊七五丁以下)

(ロ) 被告人は昭和二十六年六月七日(第二回公判(記録第一冊九四丁裏以下))に出廷した証人土屋亮二の「被告人が昨年六月頃確かに血のついたワイシャツを持つて来ました」云々の極めて明かに措信するに十分な証言をなしたに拘らず同証人に対して次の尋問をしている。即ち、

問 私は全部で八、九回洗濯物を持つて行つて居ります。それで私が何回目かに行つた時証人と話をしている内、傍に作業服に油のついたのがありましたから落ちますかと聞いた事があります。その油のついている所は丁度ポケットのある附近でした。証人が見たというワイシャツには、いつたいポケットがついておりましたか。

答 ワイシャツにはポケットがありました、その左のポケットの下あたりに血のついたところがありました。

(ハ) 被告人は前同日出廷した証人前田栄次郎(記録第一冊一〇一丁以下)が「被告人から自転車を返された時自分はまだ寝ておつて、妻が朝の炊事をしている時で、自分がその自転車を見たのは午前六時半頃起きてから見たと述べ(この点は証人前田たかの供述や同人及び前田栄次郎の検察官に対する各供述調書の記載等から見て一貫した間違いのない事実である)ておるのに対して「私が自転車を前田さんの家に返しに行つた時、おじさん(栄次郎のこと)に会つたと思います。その時おばさんは私に裏に、おじさんが薪割をしているから、といつて木戸を開けてくれたので、おじさんが薪割をしているのが見えました」と述べている。(何故に、被告人が、この様に述べるかといえば、それは野田えパンパンを買いに行つた者が、そんなに早く帰つて来るのはおかしいと疑われ、要蔵方から帰つて来たことを否定する魂胆からと認むべきである。)

以上例示した事項について見ても、被告人が自己の利益のためには、いかに嘘を平気でつくかが認められるので、被告人の表現した言葉だけを一方的にみて措信することは危険極まるもので正確な判断をあやまる基である。

右の次第であるから、是非とも、右昭和二十六年三月十日被告人を取調べた司法警察員小川洋平が、どんな取調をなしたか、この点に関する証人小川洋平の当公判廷の供述及びこれに対する弁護人並に被告人の反対尋問や陳述その他これに関連する資料に基き公平に判断しなければ、片言獄を断ずる結果となり、事実確定の原則に反する譏を免れない。

(A) よつて先づ、証人小川洋平の昭和二十六年六月十五日附第四回公判調書の供述記載(記録第二冊一二〇丁表七行より一三〇丁表八行まで)を調べて見ると次の問答がある。

〔弁護人の尋問〕

問 裁判所に押収してある被告人の服を本田に見せたか。その時洋服に血が着いていると申さなかつたか。

答 見せました。押収物の中本田君に見せたのは洋服と投書だけであります。投書の方は「君はこれを知らないか」といつて見せました。最後に洋服の方は「君の服には血がついていたという事になつている様な事もあるがどうか」という言葉を使つて被告人にきき、川島部長刑事に洋服を被告人に見させて直ぐしまいました。すると本田君は三日考えさせてくれと申しましたので、その時はそれだけで話はすみ、私は帰りその晩か何かに相川部長に「洋服について居たという血は飛んだ血か塗つた血か」と本田君が尋ねたということを相川から私は報告を受けました。

問 本田に洋服を見せた際かその後「お前が殺さなければ血が附着する筈はない、お前がやつたのだろう」という風に本田に聞いたことはないか。

答 そういう風に聞いたことはありません。

問 被告人は本件犯行をやらないと申して居たでしよう。

答 申して居りました。

問 それに対し証人は「やらないというならやらないという証拠を出せ」と被告人に申しませんでしたか。

答 そうは申しません、然し「本田君アリバイさえつけば直ぐ片がつくことだよ」と話し合つた事はあります。

問 私は被告人の司法警察員に対する供述調書の中に「やらないという証拠はないからやつたことにして申し上げます」との被告人の供述記載を千葉家庭裁判所松戸支部で読んだ記憶があるが如何。

答 私は本田の申す通りを調書に取つたのでありまして、そういう供述記載があつたかも知れません。本田君は「ワイシャツに血が附着しているのを洗濯屋に出した点、洋服に血が附着しているかどうかという点につき、この二つで、この事件が解決しなければ木間ヶ瀬事件の犯人として出ますよ。」と私に申しましたが私はそれはいかんよく考えてからにしたまえと申した事があります。

問 立会人三名が、交々被告人に対し「やらない証拠を出せ」と申したことはないか。

答 ありません。

右証言に対する被告人の弁解

私の服の事ですが、それに血が附いて居るという様なことは全然知らないところなのですが、証人は「此処と此処と此処に鑑定の結果によれば多量の血が附いて居る、何処で附けたのだ。」と申して私に服とズボンを見せてくれました、見ると証人の示す所に白い「しみ」の様な物が附いておる様でして私が知つて居た限りそんなところは無かつたので、どうしても知らぬと断つたのです。然し何処で附けたかと毎晩私は責められました。

〔裁判長の証人尋問〕

問 只今被告人の述べた様なことがありましたか。

答 その様なことは致しませんでした。私は本田君が頭の良い男で却つて自分の方から手玉に取られると思い、こういう事もあると考えて取調は慎重にし、本田君との問答は凡べて下書を取つてあります。本田君に服を見せるについては先程倉田先生のお問いに対して申した様な言葉で尋ねたのみで、服も一寸見せたきりで直ぐしまつたのです、すると本田君は考え込んでしまい三日待つてくれと申しました。

(B) 次に、証人小川洋平の昭和二十八年七月十六日附第四十回公判(記録第六冊一七七丁裏以下)調書における検察官の尋問に対する供述として、

そうこうしている内被告人本田の東京に出てからの洗濯物の状況を調べると、大井ランドリーというクリーニング屋にワイシャツを本田が持つて来て、その内一枚について「この血が落ちるか」といわれた事があるという事がわかつた。血のついていた個所というのはワイシャツのポケットの附近であつたが、それがなぜわかつたかというと当時警視庁管内で自動車強盗があり、洗濯屋に血のついたものがあつたら届ける様にという通知がしてあつたので右洗濯屋で知つていたという訳です(中略)三月十日頃の取調べに対して本田君が三日程考えさせてくれ、考えてから申し述べさせてくれというので署長の許可を得て取調べを中止しましたと証言しておる。

(C) 証人土屋亮二の昭和二十六年六月七日附公判調書における供述記載(記録一冊九四丁裏末行より一〇〇丁表三行まで)には次の問答がある。

〔検察官の尋問〕

問 証人は昨年(昭和二十五年)一月から夏頃までの間何処に勤めておりましたか。

答 大井ランドリーという洗濯屋に勤めていました。

問 大井ランドリーの場所は。

答 東京都品川区大井立会町四〇六番地です。

問 その大井ランドリーに勤めていた頃、同店の得意先でニュー東京という靴屋が洗濯をたのみに来たことがありましたか。

答 そういう事がありました。

問 ニュー東京の店員で本田という人を知つておりますか。

答 僕は名前は知りませんでしたが、若い人が店に来た事はあります。

問 後に坐つている人が本田昌三という人ですかどうですか。

此の時検察官は被告人を指示した。

答 此の人なら知つております。よく店に品物を届けに来た人ですし、私も品物をニュー東京に届けた事もありますから知つています。

問 被告人本田昌三がニュー東京で働いている事も知つていますか。

答 知つております。

問 被告人が大井ランドリーに血のついたワイシャツを昨年(昭和二十五年)持つて来たことがありますか。

答 昨年六月頃です。確かに血のついたワイシャツを持つて来ました。

問 その時被告人が血のついているのを指してこれ落ちますかと尋ねた事がありますか。

答 落ちますかといつた事は、はつきり覚えておりませんが、血のついているワイシャツを六月頃に持つて来た事は、はつきり覚えております。

問 その血は洗濯した結果落ちましたか。

答 落ちました。

押収のワイシャツを示し

問 このワイシャツに覚えがありますか。

答 見覚えありません。

問 このワイシャツでいうと何処に血がついておりましたか。

答 左のポケットの下に範囲は多くありませんが二箇所ありました。

問 血のつき方はどんな風でしたか。

答 一寸つけた様なつき方でありまして、よく指を切つた時一寸つけるでしよう、あんな風なつけ方でありました。

問 その血のついた洗濯物は洗濯して依頼人に届けましたか。

答 届けました。

問 持つて来たのは被告人に間違いありませんか。

答 間違いありません。

〔弁護人の尋問〕

問 血のついたワイシャツを持つて来たのはいつ頃ですか。

答 六月十五日頃と思います。

〔裁判長の尋問〕

問 血はどの位ついていましたか

答 殴られて一寸鼻血が出たのがついた様な風でべつとりではありません。

問 何処から、どういう品物の依頼があつたという事を帳簿につけますか

答 つけます。

問 昨年の帳簿がありますか

答 ありますから、すぐわかります。その帳簿は警察より来た刑事さんに見せてあります。

〔被告人の尋問〕

問 私は全部で八、九回洗濯物を持つて行つております。それで私が何回目かに行つた時証人と話をしている内傍に作業服に油のついたのがありましたから落ちますかと聞いた事があります。その油のついている所は丁度ポケットのある附近でした、証人が見たというワイシャツには、ポケットがついておりましたか

答 ワイシャツにはポケットがありました。そしてその左のポケットの下あたりに血がついたところがありました。

問 私のワイシャツにはポケットのあつたものはありません。ポケットのあつたものは鶴岡利典のものです。それに私が東京に行つたのは昨年五月二十七日頃と思いますがどうですか。

答 ポケットがあつたかどうかはつきりしません。兎に角ワイシャツの左ポケットのある位置の下に血がついていたのです。

(D) 昭和二十五年十一月三十日附司法警察員警部補藤崎源之助作成の捜索差押調書(記録第一冊二三八丁)の記載によれば

右日時本田源市宅において、紺サーヂ背広上衣一枚、黒セルサーヂズボン中古一本が押収されたことが確認せられる。

(E) 昭和二十五年十二月十六日附鑑定人宮内義之介作成に係る鑑定書

これによると鑑定人は昭和二十五年十二月八日千葉県本部鑑識課長から昭和二十五年五月六日東葛飾郡木間ヶ瀬村に発生した殺人事件に関し、紺さーじ背広上衣並黒羅紗ずぼん、について血痕検査を嘱託せられ、鑑定書を提出して居るが、その検査成績を見ると、るみのーる発光試験においては、上衣は右袖先端に線状に長さ約三・〇糎の発光点を発見し、ずぼんは右尻ぽけつと上部に二個の小豆大発光点と右膝膕内に小豆大の発光点とを発見した旨の記載があり、べんちぢん試験の結果は、前記四個の発光点は何れもこの試験陽性にして血液たるの疑い濃厚となりたるも上衣右袖とずぼん並右膝膕内面のものはこの試験微弱にしてこれ以上の検査続行不可能なれば右尻ぽけつと上部のみ人色血素沈降反応試験を行つた、その試験の結果は陰性に終つたが、これは斑痕が極僅少なる為人血を附着するも、その反応陰性に終つたものか或は最初より人血を附着せざるものか、その区別明かでない旨記載しておる。

(F) 証人宮内義之介の昭和二十六年六月十二日附第三回公判調書における供述(記録第二冊一八丁裏)

問 べんちぢん試験の結果陽性反応の起る場合は如何なる場合か

答 人血の場合のみならず、植物のシミ、銅の錆が附着している場合にも人血の場合と同様に陽性反応が現れるのであります、そこで人血なりや否や試験したのですが陰性の結果が出ましたがこれは人血でないからか、量が少いからかが判明しないので、この結果から直ちに人血は附着せずと結論することは出来ません(これは押収の鉈に関しての証言中のものである)と述べられておる。

以上の証拠を綜合して更に次のように検討する。

(ろ) 先づ前記第三回供述調書にある洋服やワイシャツに血が付いて居たという証拠があるか否か、全く捜査官小川警部が荒唐無稽の事実を提げて自白を強要したかどうかに就いて検討する。

(1) 昭和二十五年十一月三十日司法警察員藤崎警部補は被告人の父本田原市宅に於て、紺サーヂ背広上衣一枚と黒セルサーヂズボン中古一本を証拠品として押収したことが認められ、

(2) 右物件につき千葉県国警本部鑑識課長から宮内義之介に対して、血痕附着の有無につき鑑定を依託し、その結果、上衣右袖先端に線状に長さ約三・〇糎の発光点を発見し、ズボンの右尻ポケット上部に二個の小豆大の発光点と右膝膕内に小豆大の発光点を発見し、べんちぢん試験の結果、前記四個の発光点は何れも試験陽性で血液たるの疑い濃厚となつたが人血色素沈降反応試験の結果は陰性に終つたが、之は血液が附着するも僅少な場合は陰性を呈するから陰性なるが故に、人血に非ずと結論することは出来ない(右鑑定書の記載と宮内証人の前記供述とを綜合して認める)旨鑑定しておる。

右鑑定書を捜査官に於て入手して居た点及び証人土屋亮二の当公判廷における前記証言や、証人小川洋平の前記証言により被告人が昭和二十六年六月頃、大井ランドリーという洗濯屋(経営者志村三郎)に血液附着のワイシャツを持参し洗濯を依頼した事実があることは明瞭で、この事実を捜査官において入手して居た事が認められる。而して捜査官としては苟も犯罪に関係ありと思料せられる諸般の資料に基き、あらゆる角度から拷問、強制、脅迫、詐術等にわたらない範囲内において縦横自在に被疑者や参考人等につき質問を発し実体的真実の発見に努力すべきことは当然の職責であつて、捜査官小川洋平が右の資料に基き前示被告人の司法警察員に対する第三回供述調書作成の際、被告人に対して質問したことは同調書記載の被告人の供述と、この供述をめぐつて活溌な質問が展開せられたことは前記証人小川洋平の当公判廷における供述記載に徴して明かである。然らば小川洋平の被告人に対する質問が法の禁止する拷問、強制、脅迫、詐術等の方法によりなされたか否かの点を検討するに、証人小川洋平の前記公判調書に記載された証言によれば、その時小川洋平は被告人に対して「君の服には血がついていたということになつている様なこともあるがどうか」という言葉を使い、証拠物たる洋服を被告人に示したことが認められる。被告人の司法警察員に対する右第三回供述調書中に、被告人の供述として「洋服に血がついた云々」と記載してあるのは正に、この時のことをいつたものと思われる。またワイシャツに血がついていたということにつき、質問がなされたことも右証人小川の証言や被告人の供述記載から認められる。而して押収物件に犯罪に関係あるものと捜査官が思料した場合、その資料に基き右の発問程度の質問方法は何等強要に亘るものと認められないことは同証人に対して弁護人が「本田に洋服を見せた際か、その後、お前が殺さなければ血が附着する筈はない、お前がやつたのだろうという風に本田に聞いたことはないか」との尋問に対し同証人は「そういう風に聞いたことはない」と述べておるところからも、また弁護人が右証人に対して「立会人三名が交々被告人に対して、やらない証拠を出せと申したことはないか」との尋問に対して、小川証人は「ありません」と述べておるところからも明かである。証人小川洋平が宮内鑑定人の「洋服、ズボンにつき血液たる疑い濃厚とある」ことに基き、この点に関して被告人に対し「君の服には血がついていたということになつている様なこともあるがどうか、何処でつけたか」という趣旨の尋問がなされただろうことは前記証人小川の証言や右第三回供述調書の記載に徴して明かである。右弁護人尋問の如く「お前が殺さなければ血がつく筈はない、お前がやつたのだろう」という質問方法を取つて、被告人を追及して自白を強要したとすれば、それは法の禁止する強要となることは勿論であるが、かような質問のなされなかつたことは前記証人小川の供述記載により明かである。

捜査官としては、証拠物件に「血液附着の疑い濃厚である」と云う鑑定人の意見があれば、それを取つて以つて被告人に対し、先づ、第一に何処でつけたかと質問するのは当然であつて、被告人としては、黙否権を告げられておるのであるから答えたくなければ答えなくてもよいし、また、血をつけた覚えがなければ「ありません」と答えれば十分である。殊に被告人は鶴岡靴店に居た当時、鼻血を出したとか、靴の修繕作業中に手を切つて血を出したこともあつたと証人鶴岡利典や鶴岡としの証言がある位であるから、そのときに血をつけたかも知れないので、そのことを以て弁解することも却つて事実に符合する自然なものと考えられる。

被告人は昭和二十六年三月十八日司法警察員に対する第七回供述調書において、洋服やズボンに血が付いていたことにつきその箇所を図面に書いて提出し、同年三月十四日司法警察員に対する第五回供述調書において「その晩着て行つた洋服とズボンは、その後二日してから家の裏で内緒で自分で洗つてしまいました」と述べており、また被告人の検察官に対する供述調書においても、被告人は「上衣の右の袖口あたりとズボンの裾の方に少しと膝の上の方に少し血がついていたから自宅え帰つてからズボンと上衣をぬいで押入れに押込み、それからは別の上衣とズボンをはいていたが、二日位経つてから家の人にわからない様に血のついた上衣とズボンを自分で洗つて乾かしました」旨供述しておる点から見ても宮内鑑定人の意見は正しいもので、小川警部がこの事柄を捉えて被告人に質問したことは何等不当ではない。

次に、前記被告人に対する第三回供述調書中の「自分では決して要さんを殺さないという事は一番自分がよく知つて居りますが、しかし、それに対する証拠とか証明が自分でも出来ない、要さんを殺さないという証明ができないのです」とある点を検するに、弁護人はこの点に関し右証人小川に対し「証人はやらないというならやらないという証拠を出せと被告人に申しませんでしたか」と尋問したのに対し、小川証人は「そうは申しません、然し本田君アリバイさえつけば直ぐ片がつくことだよと話し合つた事はあります。」とある事から見て筋の通つたアリバイがあるならば出したらよいという趣旨の被告人に利益な証拠の提出を促したものと認められる。これは刑訴が被疑者に対し反証の提出を促しておる法の精神より見るも何等不当な事ではなく、法の是認する事柄であるから、これを以て自白を強要したということは出来ない。

次に右第三回調書中被告人の「自分では決して要さんを殺さないということは一番自分がよく知つておりますが、然し、それに対する証拠とか証明が自分でもできない、要さんを殺さないという証明ができないのです。それでこれから三日間考えて、洋服に血がついたとか、ワイシャツに血がついていたとか、それが解答できなかつたら、今まで嘘をついたり、また、刑事さん方に迷惑をかけたり、参考人として呼ばれる人達も皆な迷惑をかけるんです、だから三日考えてから要さんを殺した犯人だといつて私が出ます」と記載されておる点につき考えるに、前記証人小川洋平の供述記載中、弁護人が同証人に対し「私は被告人の司法警察員に対する供述調書の中に「やらないという証拠はないから、やつたことにして申上げます」という被告人の供述記載を千葉家庭裁判所松戸支部で読んだ記憶があるが如何という質問を発しておるが、この問答中の弁護人の質問事項の「やらないという証拠はないからやつたことにして申上げます」というような被告人の供述は本件記録中どこにも見当らないから、これは恐らく右第三回司法警察員に対する被告人の供述調書中の前記指摘の箇所を指すものと思われる。すなわち、被告人が「要さんを殺さないという証拠とか、証明が自分でもできない、これから三日考えて洋服やワイシャツに血がついていたとか、それが解答できなかつたら、要さんを殺した犯人だといつて私がでます」とあることを指しておるものと思われる。この被告人の供述は被告人の任意の供述であることは間違いないが「三日考えて解答ができなければ、要蔵一家皆殺事件の犯人として認めるから犯人だといつて出ろ」と捜査官がいつたか否かは、右記載だけでは直ちに確定できない。この点につき弁護人の尋問に対して前記証人小川洋平は「私は本田の申すとおりを調書に取つたのでありまして、そういう供述記載があつたかも知れません、本田君は「ワイシャツに血が附着しているのを洗濯屋に出した点、洋服に血が附着しているかどうかという点につき、この二つで、この事件が解決しなければ、木間ヶ瀬事件の犯人としてでますよ」と私に申しましたが私はそれはいかん、よく考えてからにしたまえと申したことがあります」と、証言した旨の記載がある。この点から見ると、洋服に血がついたとか、ワイシャツに血がついていたとかの点につき、被告人において解答ができない場合は、被告人を犯人と断定するから犯人だといつて出ろ、という意味の押付けがましい強要的態度や言動を以つて質問したことは毫も認められない。却つて小川証人は、被告人が右の二点でこの事件が解決しなければ、木間ヶ瀬事件の犯人として出ますよといつたのに対して「そういうことはいけない、よく考えてからにしたまえ」といつて、被告人に熟考の機会を与えたことが認められるので、むしろ捜査官としては無理のない適宜の処置を取つたものといわなければならない。

なお、前記被告人の第三回供述調書において「三日間考えさせて下さい」とある点よりして、三日間も考えなければならない程の強要的な質問が洋服やワイシャツの血痕附着の点に向けられ、被告人は身に覚えのない事柄を押付けがましく問い詰められた如く解釈し、如何にその時の質問が苛酷なものであつたかを推断するが如きは、犯罪捜査の段階と、被告人の防禦権行使についての時間的余裕の必要であることを正解しないものといわなければならない。何となれば被告人は前記司法警察員に対する第三回供述調書において「洋服に血が付いたとか、「種々」なことを三日だけ考えさせて下さいとあるその「種々な事柄」をも考慮しなければならない。この種々なことは何を指すものであるか、それは思うに、被告人は本件につき、当初、昭和二十五年十二月九日附司法警察員に対する第五回供述調書(記録第四冊九五丁以下)において、要蔵一家皆殺事件の被疑者でないといつて三点を主張した、即ち第一点として、古橋要蔵とは共同出資で闇屋をし親子のような間柄であるから殺す訳はない。第二点として、昭和二十五年五月六日当時は金に窮していない。第三点として昭和二十五年五月六日は東京の中村方や後藤方え行き、その夜は尾崎の実家え帰つて寝ていたから、五月六日当日の行動や所在は、はつきりしている。とアリバイを主張したが、第一点は要蔵が死亡したので、同人と共同出資による闇屋を解消した際のことは不明であるが証人小川洋平の証言によると、要蔵と別れるときには仲違いしたとのこともある。第二点はマルヤス産業の靴代金横領事件につき同年五月五日稲本シゲや村山弥太郎等に追及せられて渋々横領事実を認めた程で、当時金銭に窮していたことがわかり被告人の主張はくづれた。第三点は、被告人の祖母本田りゑの昭和二十五年十一月二十六日附司法警察員に対する供述記載(記録第一冊一八七丁以下)や証人鶴岡当志の昭和二十六年六月十二日第三回公判(記録第二冊一丁以下)廷の供述記載等を綜合して見ると、これまた、くずれ去り、また被告人は昭和二十五年五月六日の行動につき、後記(ハ)の第一の(1)の調書にあるとおり昭和二十五年五月六日は午前七時二十分川間駅発の電車で上京し、後藤伝三郎方え行つたと主張したが同(ハ)の第一の(4)調書では、右と反対に五月五日の晩は中村秀子方の運転手の部屋え三人で泊めてもらい、翌日大宮駅発午後八時半頃の電車で帰つてきたと自供し、右(1)の供述が全く嘘であることが看破せられた。

次に、被告人は昭和二十五年五月六日の晩は東京から帰つてきて、前田栄次郎方で午後十時頃飲食の上、同家から自転車を借りて野田え女遊びに行つたことを同(ハ)の第一の(5)(6)の供述調書で明言しており、同(7)の供述調書では、五月六日の夜は野田え遊びに行つたと供述してきたが考え違いもあるから留置場え帰つてよく考えたいと述べ、同(3)の供述調書では五月六日の夜は、野田え行つたような気もするし、家え帰つて寝た様な気もするし、何処え行つたか覚えないといい、同(9)の供述では五月六日の晩は前田方から自転車を借りて午後十時三十分頃、出たことはよくわかつているが行先は不明だと述べ、同(10)の供述では五月六日午後十時頃野田え遊びに行こうと思い、前田方で午後十時三十分頃、自転車を借り、でかけたが、それから先は、今だに何処え行つたか思い出せない、どうも自分では野田のパンパン屋え行つた様な気がすると述べ、昭和二十六年一月三十日附第十七回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊一九七丁以下)では、五月六日の晩は、最初は野田え行こうと思い、自転車を借りて、でかけたが、県道えでて中里の方え向つたが、まあまあいいや要さんの家えでも行こうと思い闇道を通り要さんの家え行つて、土間の板の間の上り口で、要蔵や秀世と話をして一時間位で帰つたと述べ、昭和二十六年二月二日附第十九回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊二二八丁裏)では、五月六日の晩、要蔵方を訪ねたのは間違いないと述べ、同年二月六日附第二十二回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊二四四丁裏以下)では、五月六日の晩、前田方から自転車を借りた模様を述べ、同年二月八日附第二十四回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊二五三丁以下)においては、五月六日の夜、要蔵さんの家え行き、要さんや叔母さんと一時間話したということは嘘で、表の戸袋の節穴から、のぞいて中の様子を見て帰つたと従来の主張を、ひるがえし、同年二月十七日附第二十六回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊二五六丁裏)ではワイシャツをクリーニング屋え出したのは、昭和二十五年六月中旬頃であるが血痕附着のものを頼んだことはない(これは土屋亮二の証言によりくづれた)と述べ、同年二月二十二日附第二十八回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊二七二丁裏)では五月六日、前田方で自転車を借り野田のパンパン屋え行つた、金が五、六百円しかないので駅前のポンプ屋の斉藤勇之進から千円借用したと述べ、同年三月一日附第二十九回司法警察員に対する供述調書(記録第四冊二七六丁裏)では、五月六日の夜、砂南の要さんの処え行つたことが、はつきりしたと述べ、同年三月二日附被告人の司法警察員に対する第一回供述調書(記録第三冊一八九丁)では、昭和二十五年五月六日の夜、近所の前田方で自転車を借りて確かに要さんの家え行つたが絶対に家の中に入らず、戸袋の節穴からのぞいて帰つたと述べ、昭和二十六年三月五日附被告人の司法警察員に対する第二回供述調書(記録第三冊二三七丁裏)では、被告人は、あの晩(五月六日)前田さんの家で焼酎を飲んで自転車を借り、要さんの家え行き、要さんに土間の雨戸をあけてもらつて家の中に入り、立ち話をして帰つてきたと述べておるが、アリバイは漸次崩潰し去つたところえ、捜査官から第三回供述調書について先に説明したような洋服やワイシャツの血痕附着に関する質問があつたため、被告人としては、血痕附着の問題のみならず、右に述べた如く供述に幾多の変遷があつたため、これらのことを振り返つて、新に陣容を整備して一条の活路を発見しようとして三日間の猶予を要求したものであろうことは、被告人が右第三回供述調書の第一項に「洋服に血がついたとか「種々」なことを三日だけ考えさせて下さい」と述べている点から見ても推測することができる。他面、犯罪捜査には段階があり、強殺事件のような犯人不明のものについては、第一段階において現場検証、指紋、遺留品、兇器等の有無、証拠品と思料せられる物の鑑定、侵入口、足跡、逃走経路、犯行の手口等を十分捜査し、第二段階において、附近の聞込み前科者、怨恨、その他被害者との生前の交遊関係者等を洗い、嫌疑者を逮捕したときは経歴、前科の有無、家族関係、金銭関係等から質問して順々に捜査圏を圧縮し、容疑濃厚と認めた場合に最終段階において、所謂、最後の決め手を打つのが、捜査官の採用する捜査の常識であることは公知の事実である。本件もこの常道に則り捜査が運用せられたものと認むべく、捜査官が最後の段階において洋服とワイシャツに「血痕がついていたという事になつている様なこともあるがどうか」との発問をしたもので、ここにおいて、被告人は三日の猶予を要求し、捜査官としては捜査の段階における身柄拘束の制限時間最大二十三日間の内の貴重な三日間の猶予を被告人の要求するままに許容し、被告人に深思熟考の時間的猶予を与えたもので、この寛大な措置に出た点から見るも、取調官が如何に親切で、強制などを加えて自白を強要したものでないことを推断するに十分である。

刑事訴訟法二七五条が、第一回公判期日と被告人に対する召喚状の送達との間には、規則の定める猶予期間を置かねばならぬことを定め、規則一七九条において簡易裁判所では三日、その他の裁判所では少くとも五日間の弁論準備の時間を与えたもので、この猶予期間が規則通り定められた公判廷の被告人の供述は信用し得るものであり、且つ任意性も是認し得ることを規定したものである。本件の三日間の猶予は、その後の供述が全く深思熟慮の末になされたものとして任意性を肯定するに、ふさわしいものと認むべきである。

もし、仮りに被告人が検察官の面前において真に任意に供述した場合においても、これに近接した一両日前に警察において拷問の結果不任意に自供したことが明かな場合には、前者の瑕疵を後者がそのまま承継するものと論ずる者があるかも知れないが、もしその議論のとおりとしたら、その後近接する日に改悟の末真心より任意になされた供述までも不任意の疑いありとして排斥しなければならなくなり、その失当たるや明かである。

(参考) 昭和二十五年七月十三日東京高裁第八刑事部判決によれば犯行当時心神耗弱であつたからとて、犯行の翌日又は十数日後の作成にかかる供述調書の内容に任意性の疑ありとなすを得ないと判示しておる。

前叙の如き理由であるから前記第三回被告人の供述は自供を強要せられたものに非ずと認定するを相当とする。又、もし、ここに論旨あつて、被告人は前記司法警察員に対する第三回供述があつて後三日目の同第四回供述調書において、要蔵方に侵入した個所につき「あげぶた」を開けて入るという事は当裁判所の検証の結果から見るも不可能であるから嘘をいつたものである。また兇行用の鉈も要蔵方土間にあつたものを使用し、それを要蔵方の井戸に捨てたといい、これは警察で捜査した結果嘘であつたことがわかり同第五回供述において侵入口につき大日堂の雨戸を、板つぺらを戸の下に差し込んで上え持ち上げる様にして雨戸を外したといい乍ら同第七回供述では鉈を以つて開けたと変更し、兇行用の鉈は江戸川に捨てたといつて前言を飜し同第六回供述においては兇行に使用した鉈は自分の家のものであると供述する等幾多の虚偽が包蔵せられ供述に一貫性を欠いている点を捉えて、直ちに被告人が同第三回供述調書にあるが如く強要せられたため心にもない出鱈目の供述をするに至つた証拠であると論断するならば、それは被告人が、昭和二十六年三月十三日以前の供述においても枚挙にいとまない程多くの嘘をいつておることが認められ、また被告人はこの点について検察官に対して「この事件が警察に来て取調べられるようになつてから、成るべく罪をのがれようと思い小川警部その他に色々嘘をいつてきた」旨の供述しておることが認められるので、これらの事実に目を蔽つているもので正当の論拠ということはできない。一般的に、犯罪人が兇器を隠匿したり犯罪の手段方法につき虚偽の供述をすることは古今東西にその類例乏くない。ヤクザの殺傷事件等において犯人として自首しながら使用した兇器を隠匿して提出しない事例は顕著な事実である。

従つて被告人が前記第四回供述以後の供述において嘘が多い事実を捉えて、これは前記第三回供述の際捜査官から自白を強要された結果の表現であると断定することは相当ではないと認定する。

第二、被告人の自供を記載した司法警察員に対する第四回乃至第七回供述調書、検察官に対する供述調書、家庭裁判所裁判官に対する供述調書の任意性の有無についての検討。

(1) 司法警察員に対する被告人の第四回乃至第七回供述調書(記録第三冊第二五五丁より第二九七丁まで)には、何れも質問前に供述拒否権を告知しており、供述事項は、録取後被告人に読聞け、被告人において誤りのないことを申立てて、署名指印しておることが認められ、また証人小川洋平の昭和二十六年六月十五日附公判調書(記録第二冊九九丁以下)中の本件は出入不明の事件であつて「現場の真相を知る者が星である」から誘導または強制により自白を求めれば真相が把握できなくなるから、捜査官として厳に注意して取調べた旨また被告人の取調にあたつては必ず立会人を置き被告人の供述はそのまま下書をとり、調書に録取し、無理な取調をしなかつた旨の供述記載及び証人藤崎源之助の昭和二十六年九月七日附(記録第三冊八〇丁以下)公判調書中の供述記載によれば、被告人の取調に際しては何等誘導的又は強制的な態度を以て自白を強要した事実がないことが、認められ、なお、被告人の右供述調書の記載内容には幾多の矛盾や司法警察員の検証の際判明している事項と相違する供述をしたことが、その供述のまま記載されている点等から見ても捜査官が捜査の過程で知り得た事実に符号するように被告人を誘導して供述させたことは毫も認められず被告人の供述のままが記載されておることが認められるので前記各供述調書の供述については何等任意性を疑うべき余地なく任意性があるものと認めるを相当とする。

(2) 検察官に対する被告人の供述調書(昭和二十六年三月十九日附、記録第三冊三五丁以下四五丁)は、被告人に対する司法警察員作成の前記第三回供述調書作成後九日後に作成せられており、検察官は被告人に対し供述拒否権のあることを告知し、被告人は取調官が検事であることを認識して供述しており、その供述は録取後読み聞けられ、被告人は誤りのないことを申立てて署名拇印しておることが認められ、また昭和二十九年五月二十四日附第五十四回公判(記録第六冊三四八丁以下)における証人小西太郎の証言及び取調べに立会つた検察事務官三須博の証言として昭和二十六年九月七日第八回公判(記録第三冊七五丁以下)において検察官は被告人の取調にあたつて何等誘導的又は強要的態度言語を以て無理な取調をした事がなかつた旨の記載があり、以上の点から見て被告人の検察官に対する自白は任意性あるものと認める。

(3) 被告人の少年として千葉家庭裁判所松戸支部裁判官の面前における昭和二十六年三月二十二日附調書(記録第三冊四七丁以下六五丁)について、

少年事件を検察官から家庭裁判所に送致する場合には、証拠書類、証拠物と共に送致するから裁判官はこれらの証拠により少年に質問する前にある程度の予断を生ずることがあることは否定できないばかりでなく、本件においても立沢裁判官が被告人の否認に対し、真実は一つしかない訳であるが、それを認めたり、否認したり云々と説得している点から見て、同裁判官が質問前に証拠を検討していることが認められる。而して右保護事件は本件公訴事実と同一の古橋要蔵一家四人を殺害した強盗殺人事件であつて、少年が司法警察員及び検察官に対し自白しており、他にも少年の自白に符合するが如き証拠もある事件であるから、斯る場合、家庭裁判所裁判官は必要な質問はしても、少年が仮りに否認したとしても自白を強制することなく、恐らく少年の供述のままを調書に録取した上、少年法第二十条により検察官送致の決定をなすべき事件であることは裁判官としての経験に照して明かであるから、同裁判官が少年に対し自白を強要したとは認められないし、又被告人は同裁判官から警察においては何と述べたか述べて見ろといわれ、警察では、この様に述べましたといつて、警察で述べたとおりを述べたところ恰も裁判官に対し任意に述べたように調書に書かれたのである旨陳述するが、裁判官が被告人の供述の趣旨を故意にわい曲して調書を作成するが如きは想像することもできないことであり、又被告人は該調書は被告人が述べた通りを書いてあるから署名しろといわれてそれを信用して読んで聞かせて貰はないで署名指印した旨陳述するが、証人大塚儀平の証言(昭和二十九年六月十六日附第五十四回公判調書、記録第七冊三丁以下)によれば、被告人の供述の通り録取し、読んで聞かせた上、被告人に相違する点があるかどうかを聞き、被告人が間違いがないと述べたので署名指印させたものであることが明かであるから任意性のあることは明かである。

よつて弁護人の被告人の自白は任意性がない疑がある旨の(2)の主張は採用しない。

(四)  被告人の自白の信用性についての認定。

(イ) 被告人の自白の信用性については被告人の自白がどの程度まで本件犯行直後である昭和二十五年五月七日附を以て作成せられた司法警察員の検証調書の記載と符合するか、その点の検討が特に重要であるから先づ右検証調書の要旨を次に摘録する。

右検証調書によると

(1) 被害者住居の建物は、大日堂と呼ばれる住家を兼ねた間口四間半奥行三間の木造茅葺平家建で東側に鶏舎があり、鶏舎と本家建物との中間に自転車の輪跡が二、三条あつた。

(2) 建物の表側雨戸の戸袋側(東方側)より西方え二枚目の雨戸の下方に高さ一尺三寸幅四寸位の破損個所がある。被害者方屋内の入口は<イ><ロ><ハ>点の三個所で、何れも内部から施錠してあつて外部からは開けることは出来ない。(この<イ>は土間の入口、<ロ>は五畳間の南側雨戸にあるもの、<ハ>は裏側にあるものを指す)止むを得ず表雨戸の外れ易い個所である西端より右え二枚目<ニ>点の雨戸一枚を外側に外したところ<ホ>点硝子戸が一尺二寸位開放のままとなつて居た、雨戸を順次一枚宛右側より最初外した溝の個所に送り<ハ>点雨戸附近まで来ると<ト>点硝子障子が開放してあつたのでその部分から家族の寝室<チ>点に入り現場を写真に順次撮影し、そのまま実況を保存した。

(3) 寝室は畳五畳敷で、その座敷に布団二組を敷き全家族四人は西枕に押入の方から

長男和成   当五年

要蔵     当三十五年

二男清    当二年

要蔵の妻秀世 当三十年

の順序で死亡していた。

(4) 電燈は六〇ワット一燈だけで、要蔵の枕元辺上部鴨居より畳上四尺一寸位の位置に吊り下げてあり、消燈の状態にあつたので試みに「スキッチ」を捻つたら点燈した。

(5) 死者四名の掛布団は略々整然と掛けてあり、要蔵の掛布団上には血痕附着の大人用中古灰色作業用上衣一枚があつて、その上衣の右下ポケットには現金のみ、十円札一枚、一円札三枚、五十銭札一枚、十銭札一枚、合計十五円六十銭が在中した。

尚同掛布団上に大人用古き国防色夏乗馬ズボン一着があつた。この上衣とズボンは被害者要蔵が就寝前着用のものを脱衣したものと思はれた。

妻秀世の掛布団上には秀世が就寝に当り脱衣したものと思われる「モンペイ」上衣一枚及び清のものと認められる血痕附着の「オシメ」二枚があつた。

(6) 右双方の掛布団を除き検すると、

和成はうつ伏せとなり外傷認め難く、

要蔵は上向となり、唇は腫れ上り枕元には敷布団頭部辺より畳上に亘り鮮血流溜し、

清は上向になり外傷認め難く、

妻秀世はうつ伏せとなり、髪は乱れ、顔面及び同部分に当る敷布団は鮮血にまみれ枕元畳上には前記同様多量の鮮血流溜し、

(7) 被害者所有と思はれる子供背負帯の一端にて要蔵の頸部を二巻きして強く緊縛し、同帯の他端にて秀世の頸部を一巻きして強く緊縛しあつた。

(8) 枕は夫婦用の二個であつたが何れも枕は外れ、要蔵の枕元に置かれた子供の玩具二個には何れも血痕が附着していた。

(9) 敷布団及び掛布団共に要蔵の頭部辺と秀世の頭部辺にのみ血液が滲透し或は血液の附着が顕著で他の部分には殆んど認められない。

(10) 血液飛散の状況

別紙第四、八図に示す如く周囲の仕切板戸、襖、乾燥中の「オシメ」硝子障子並に奥八畳の間との仕切板戸の敷居等に米粒大程度の血液の飛沫が数箇所に認められ、枕元の中仕切り板戸については、

秀世の方である表椽側の方から一枚目の板戸を除き他の二枚目三枚目四枚目の中仕切板戸には何れも飛散せる血液が附着して居た。

(11) 室内の状況は前記被害者が死亡して居た五畳敷と板の間及び土間は仕切りなく、その土間には東側から三尺の雨戸一枚を出入口としてその雨戸には輪鍵で完全に施錠してあつた。

(12) その入口より土間に入ると、左側に被害者所有の自転車一輛立掛けてあり、右に向けば土竈があつて、そのかまどに釜がかかつて、その中に茶碗約二杯位の麦飯が残つて居た、その附近に金火箸、こんろ、和成のものと認められる中歯下駄一足、水手桶、柄なしの鉈等が置いてあつた。

(13) <リ>点、巾三尺の板の間には、

表戸袋の方<ヌ>点附近には、

南京袋入白米一斗七升位、

一斗笊内に、木綿製軍隊用携帯天幕中古品一枚

金子明雄と記名せる二重紙袋一個

金子明雄と記名せるメリケン袋一個

木綿製軍隊用携帯天幕一部切取つた古品一枚

その他南京袋二、三点

その側に丼一個その中に小魚二匹が生きて居た。

(14) 秀世の足の方の板の間にはクレオソート丸の壜とその蓋が取れて十数粒板の間に敷在し、

<ル>点附近に昭和二十五年五月三、四、五、六日付の朝日新聞散在し座布団も附近に置いてあつた。

<オ>点は畳一枚敷で、リンゴ箱を台に仏壇に代用して位牌を置き線香等もあつた、その後側には石灰窒素肥料六袋を重積してあつた。

(15) その北側<ハ>点は雨戸二枚があつて開けて建物の裏側え出入が出来るのであるが、同所の雨戸には輪鍵が完全に施錠してある。

(16) <カ>点は三尺の二段押入戸棚で前戸なく、上の段には瀬戸物その他勝手古道具を置き、下の段には古い布片雑物及びりんご箱内には南京袋入りつぶし麦六升があり、その右側柱には茶舞台が立掛けてあつて、その下に右素足の足跡があり、小指が茶舞台の下に隠れて居た。

(17) <ワ>点板の間には雑多な勝手道具が並んであるが、丸型茶盆には箸が一ぜんと白色茶呑茶碗二個及びアルマイト製つる付き急須一個を載せ茶盆の外に白色茶呑茶碗一個あり、その側に枡二個及び二つ折になつた百円札一枚並に味噌汁様のものが少量入つた丼が置いてあつた、その他の物品は見取図及び写真にある通りである。

(18) <ヨ>点の茶箪笥内は「えびがに」の煮たもの、その他の瀬戸物類が置いてあり同茶箪笥の右下小抽斗内には金関係書類及び現金十円札二枚、一円札三枚、アルミ貨等二十二点、計三十三円九十銭が入つて居り抽斗及び戸が全部閉つて居た、その茶箪笥の脇に桶が置いてあり桶の上に菜板を載せてあつた。

又押入の上部より表側戸袋に向け竹竿を斜に貫き載せその竹竿に「オシメ」を十数枚乾してあつた、その「オシメ」の一部に血液の飛沫が附着して居たのを認めた。

(19) 表側戸袋内を検するに別添第六図の寸法に依る竹製の心張棒を以つて完全に固く施錠してあつた。

この戸締の鍵は前記共合せて三ヶ所であるが何れも完全に施錠をしてあつたことが判明した。

(20) <タ>点三尺に六尺の二段押入内を検するに別添第七図の如く上段向つて右側の部分には「レザー製鞄」がチャックが毀れて口が開いて内部の物が見える状態になつて居り又、黒革製ハンドバックが置いてあつたが、その内部は空であつて一見してこの右側の部分は犯人が物色したかと思はれる状態であつた。

(21) 上段左側は柳行李が置いてあつたが物色の模様が見受けられない。

下段右側は空で何も置いてなかつたが左側には、つづら二個あり、その中には二個とも家族の衣類が蔵つてあつたが内容は整つていて物色の状況は認められない。

(22) <レ>点奥八畳の間には

表雨戸側仕切板戸寄りに被害者方所有外出用と認めらるる衣類数点を重ねてあり、当夜秀世が衣類の手入をなしたものの様推定された。

畳下の床板については破損の個所を認めない。

椽の下と屋内土間との仕切りは松板を以つて釘付けしてあるが、その部分より出入の形跡は認められない。又土台下を掘り侵入したと認めらるる場所も認めない、旨の記載がある。

(ロ) 被告人の昭和二十六年三月十三日附司法警察員に対する第四回供述調書(記録第三冊二五五丁以下)の信用性についての検討。

この供述中明かに被告人が嘘偽の陳述をしていると認められる点は

(A) 「椽の下からもぐり土間の処の揚げぶたを二枚開けて入つた」という供述は、司法警察員作成の検証調書や当裁判所の検証の結果から見て、その場所からの侵入は困難であるのみならず、その場所の上の板の間には当時南京袋入白米一斗七升が置いてあつたので、侵入はできそうもない、また逃走の経路についても自分が揚げぶたを揚げて床下に入り板を元どおりに直したとしても、その板の上に白米一斗七升入りの袋を置くことは不可能である。

(B) 兇器について「要蔵方の土間にあつた鉈を使用した」と述べておるが、前記検証調書によると要蔵方の土間には柄のない鉈があつたのみならず、証人小川洋平の供述によれば被告人が捨てたと称する要蔵方の井戸の中には鉈が無かつたことが認められるので、この供述は明かに嘘偽である。

右供述調書中前記検証調書その他の証拠と符合する点は

(1) 兇器が要蔵方の鉈であるとの点を除き、秀世の頭部を殴つた点、要蔵の顔だか頭だかはつきりしないが殴つたという点、和成の頭部を殴つた点は、要蔵、秀世、和成が何れも頭部に重傷を受けておる旨の鑑定人宮内義之介の鑑定書の記載及び前記司法警察員作成の検証調書添付の被害者等の写真により認められるので、これらの点において被告人の供述は符合する。

(2) 要蔵と秀世の咽喉を、おばさんの着物か何かで作つた紐で締めたという点は、前記検証調書の記載や、同調書添付の要蔵と秀世の写真及び宮内鑑定書の記載並に押収にかかる紐二本(昭和二十六年領第十九号の九、一〇)の存在により明かで、この点において被告人の供述は符合する。

(3) 被告人が「何時もお金をしまつて置く鼠入らずの一番下の抽斗から二千円余りの金をとつた」と述べている点は、本田りゑの司法警察員に対する供述調書中、五月六日要蔵方で配給米二升を二百二十円で買つてその代金を支払い、また逆井勘吉の司法警察員に対する供述調書の記載によれば、同人は五月六日午後七時半頃要蔵方で白米一袋代金千九百円で買い受けたことが明かであるから少くとも当時要蔵方には、それだけの金はあつたものと思われる。

また高島悦子の司法警察員に対する供述調書の記載によれば、秀世は生活費にあてる金は茶箪笥の右または左の抽斗に入れ、纏つた金は黒革製ハンドバックに入れ、これをチャック付レザー製の鞄に納め、茶色の風呂敷に包み押入の上段向つて右に置いてあり、秀世は右高島に対して金を貯めて家を建てるのだから使わないようにして居ると話したことが認められ、また被告人は昭和二十七年二月二十日第十六回当公判(記録第五冊六二丁以下)廷において、被告人が要蔵と共同で闇屋をして居つた当時同人は常に現金三万円位持つておつたと供述して居ることや、要蔵方を捜索した司法警察員作成にかかる調書の記載からも要蔵方には預金通帳の様なものが無かつたことが認められるので同人方には相当多額の現金が存在していたであろうと推定することができるが、被害金額に関する証明のあるものは、前記二千百二十円の内、検証の際、要蔵方にあつた現金を差引いた残金であつて、前記司法警察員作成の検証調書の記載によれば、茶箪笥の右下小抽斗内には金銭関係書類、十円札二枚、一円札三枚、アルミ貨二十二、計三十三円九十銭が入つて居り、また同家板の間に百円札一枚があり、これは犯人が落したものか、または、要蔵方家人が落したものか判然しないが、これらの在金と当然あるべき金額との差額と、ほぼ符合することが認められる。

(ハ) 被告人の昭和二十六年三月十四日附司法警察員に対する第五回供述調書(記録第三冊二六三丁以下)の信用性についての検討。

この供述中前記司法警察員作成の検証調書その他の証拠と符合する点

(1) 被告人は要蔵方の土間の三尺雨戸には輪鍵が掛り、表の戸袋の雨戸には心張棒が掛けてあり裏の雨戸も外れないし椽の下からも入れないので大日堂の向つて一番左側から三枚目頃の雨戸を外したと述べているが、この点は前記検証調書中「表雨戸の外れ易い箇所である西端より右え二枚目の雨戸一枚を外側に外して開いた」旨の記載及び当裁判所の検証調書のこの点の記載と符合する。

(2) 外した戸を左側の戸え立てかけて置き、内側の硝子戸を開けたが、鍵がかかつていなかつたと被告人は述べておるが、この点も前記司法警察員作成の検証調書の「西端より左に二枚目の雨戸一枚を外したところ硝子障子が一尺二寸位開放のままとなつていた」旨の記載と符合する。

(3) 硝子戸を開けて大日堂の座敷に入り、硝子戸を元どおりに締め、そろそろ中仕切り板戸の側により、表から二枚目の板戸を音のしない様に静に表の方え開けて自分の体の入る位の幅に開けたと思います。又帰るとき中仕切板戸は大日堂の座敷え出てから足で閉めた旨供述しているが、前記検証調書添付の写真中「被害者方寝室の状況」とある赤インキで書いた説明のところに「奥八畳座敷との中仕切り板戸は四枚全部閉めてあつた」と記載してあり、その写真を見ても板戸が閉つておつたことがわかり、また足でその板戸の開閉ができるか否を当裁判所の検証の際実験して見たところ、簡単にできることが認められたので被告人の供述と一致する。

また同検証調書中「血液飛散の状況」と題するところに「別紙第四、八図に示す如く周囲の仕切戸、襖、乾燥中の「オシメ」硝子障子並びに奥八畳の間の仕切板戸の敷居等に米粒大程度の血液の飛沫が数箇所に認められ云々とあり、同調書添付の八図及び写真を見ると二枚目の仕切戸の敷居に三点、八畳座敷に二点の血液飛着が認められる。これは被告人が兇行の前、被害者の寝室五畳の間に入るとき、表から二枚目の戸を表に開けたという供述と、表から一枚目の戸に血液の飛着が認められなく、二枚目の戸に飛着がある旨の前記検証調書の記載と八畳の部屋から見て一枚目の戸が内側二枚目の戸が外側になる点等から見て被告人の供述が、この点において真実であることを物語るものである。

(4) 「叔母さんが苦しんでおるし、私がやつたんで、後で生き返ると結局、わかつて私が困るので咽喉を締めちやつたんです、最初に叔母さんの首を締め、次に要さんの首を締めた」と供述しているが、右検証調書によると、第四回供述調書の部で説明したとおり、二人の首が締めてあり、宮内鑑定書の記載によれば要蔵と秀世の首には背負い紐を以つて纏絡緊搾してあつたことが認められるので被告人の供述と符合する。

(5) 「右手は、手の甲の上迄血だらけになり、左手は指から手の甲の半分位まで血だらけになつた、洋服とズボンはその後二日程してから家の裏で内緒で自分で洗つた」との供述については、鑑定人宮内義之介の昭和二十五年十二月十六日附の紺サージ背広上衣等に血痕が附着するや否の鑑定書中「るみのーる発光試験の結果背広上衣の右袖先端に線状に長さ約三・〇糎の発光点を発見し、べんちぢん試験の結果は試験陽性で血液たるの疑い濃厚となつた」旨の記載があるのを対照して考慮すると右袖先端の血痕が附着したであろう事が推測出来る。

(6) 秀世の頭部を兇器(被告人は要蔵方の鉈で殴つたと述べておるが、この点は除く)で殴つた点、要蔵の顔だか、頭だかはつきりしないが殴つた点、要蔵が仰向けに倒れた点、和成の頭部を殴つた点、等については、前記宮内鑑定書中に要蔵、秀世、和成が何れも頭部に重傷を負つておる旨の記載及び前記検証調書添付の要蔵の写真により認められるので、これらの点において被告人の供述は符合する。

(ニ) 被告人の昭和二十六年三月十五日附司法警察員に対する第六回供述調書(記録第三冊二八一丁以下)の信用性についての検討。

この供述中「鉈は要さんや叔母さん等を殺してしまつてから直ぐ何かで拭いたような気がする」とあるが前記司法警察員作成の検証調書中に「秀世の掛布団上には秀世が就寝に当り脱衣したものと思われる「モンペイ」上衣一枚及び清のものと認められる血痕附着の「オシメ」二枚があつた」との記載と後記鑑定人野田金次郎の鑑定書の記載によれば、押収にかかる「オシメ」(昭和二十六年領第十九号の八)には、大約五糎乃至七糎の幅で長さ十数糎の間に亘り、その一半は濃く他の一班は薄く、血液が附着しておることが認められる。そして、かかる所見は押収の鉈に血液が附着していた場合にも呈することが考えられる旨、鑑定しておる点とを合せ考えると、被告人が犯行後、兇器を「オシメ」で拭いたものと認められるので、この点において被告人の供述は符合する。

(ホ) 押収にかかる鉈及び「オシメ」についての検討。

(A) 押収にかかる鉈(昭和二十六年領第十九号の四)についての検討。

第一、構造等について。

(1) 右鉈は昭和二十六年三月十六日、千葉県東葛飾郡川間村尾崎五〇番地本田源市方において押収されたものであることは、昭和二十六年三月十六日附、司法警察員作成の捜索差押調書(記録第一冊二四一丁より二四三丁)により明かである。

(2) 証人本田源市の昭和二十六年六月十二日附第三回公判調書の供述(記録第二冊四〇丁以下)によれば、

右鉈は十年以上も源市方において薪割り用に使用してきたもので、本件強盗殺人事件で第二回目の家宅捜索を受ける少し前に、源市の子供の昇が薪を割つたときに柄を折つたので、源市が柄を、すえ替えたもので、すえ替えた柄の長さや大いさは大体以前のものと同様であるが、丸い金具は以前のものとは違つたものを使つた、以前の丸い金具は何処えやつたかわからない旨の記載がある。

(3) 鑑定人村上次男作成にかかる昭和二十九年三月二十五日附鑑定書によれば、

鉈の刃金は刃と中心(なかご)とから成り、刃の刃線は微に彎曲し長さ(弦長)約一四糎あり、刃面の頭に近い最も広い処で約六・四糎中央から少しく中心に近い処で約六・一糎、中心え移る処で約六・二糎ある。

頭の処で斜に、そがれ、末は甚だ薄くなつて居るのが特異である。

棟(刀背)の厚さは、中心に近い厚さ約〇・九糎の処から頭に近い厚さ約〇・七糎の処え向つて次第に薄くなる。しかし頭から約九糎の処を中心として打ち潰されたように広くなり、約一・一糎弱に及ぶ部があり(この部で刃面の幅が最も小さい)頭では先に述べたように、そがれるので特に薄くなり約〇・四糎となる。

中心(なかご)の長軸は、刃面の長軸に対し僅に傾き、長さは約七・八糎、刃面に接するところでは幅約二・七糎厚さ約〇・七糎、反対の端では幅約二糎弱、厚さ約〇・二糎、大きな目釘穴がある。

更に仔細に刃線を観察すると、頭の方の約二・五糎の部分と柄の方の約〇・三糎の部分とでは、刃が潰れ殊に頭の処では約〇・一五糎程の厚さを有す、頭から測つて約六糎の部分から同じく頭から測つて約一二糎の部分までは、刃のこぼれと、刃のまくれとが連らなり、甚しく乱雑であり、その他の部分でも細かな刃のこぼれが無数にならぶ、但し刃角は新しい鉈に似て小さい、要するに、鉈が新しいか古いかの問題とは別に、しばしば研いたものか、どうかの問題となると、そんなには研がなかつたであろうと老えられる。

刃金の重量は約四四〇瓦、重心は頭から測つて約八・三糎の処にある旨の記載がある。

(4) 鑑定人古畑種基作成にかかる昭和二十六年十月十七日附鑑定書によれば

押収の鉈は鉄製の刃部と、鉄の輪と木製の柄の三部分から成つており、その各計測値は第一図に示すとおりである(この図によると、木の柄の長さ二二糎、最大幅三・八糎、金属輪の長さ四・三糎、最大幅三・四糎、刃部の長さ一三・八糎、幅、金属輪に近い処で六〇糎、先端で六・三糎、峰幅最大一糎、峰の先端幅〇・五糎)

重量は、木の柄と釘とで一七五瓦、鉄輪一三五瓦、刃部四四〇瓦で合計七五〇瓦で相当に重い旨の記載がある。

(5) 鑑定人井上剛作成にかかる鑑定書によれば、

押収の鉈は刃部の長さ約一四糎、幅約六・五糎、中央幅約六・三糎、厚さ〇・八糎、峰幅一・一糎、両側に向い鋭利な隆起があり重量は約四四〇瓦ある旨の記載がある。

(6) 鑑定人宮内義之介作成にかかる昭和二十六年四月十六日附鑑定書によれば、

押収の鉈の全長は約四〇・〇糎、刃部の長さ約一四・〇糎、幅約六・五糎、刀背の厚さ約一・〇糎、木の柄の長さ約二七・〇糎ある旨の記載してある。

(7) 鑑定人野田金次郎作成にかかる昭和二十七年九月二十四日附鑑定書によれば、

押収の鉈は約六・五糎×一四・〇糎平面を有し、これに約二・五糎×八・〇糎大の突起を有し、この部で木柄に装着しうるように作られた峰の幅約〇・七糎―一・〇糎でその他に輪金並に釘一本と二五・五糎長さの木柄が附属している旨の記載がある。

第二、押収の鉈に附着した血液を水にて洗い落した旨の被告人の自供について。

被告人の昭和二十六年三月十五日附司法警察官に対する第六回供述調書(記録第三冊二八三丁一行から十行まで)の記載によれば、被告人は

「要さんの家を出た時は鉈を自転車のハンドルの上に載せる様にして右手でハンドルと一緒に握つて家まで帰り、裏手の井戸端え行つて水桶からヒシャクで水をかけながら附いた血を洗い落しました。そして風呂場の外の戸の処え置いた」旨供述した記載がある。

第三、押収の鉈に人血痕が附着していたか否やの鑑定は次のとおりである。

(1) 鑑定人宮内義之介作成にかかる昭和二十六年四月十六日附鑑定書によれば、

刃部は厚く銹を被り、特に血痕らしき個所を発見せず、その前面に亘り検査を施行した。ルミノール発光試験においては、金属部は諸所不規則に発光を示し、血痕附着の疑い濃厚となる。ベンチヂン試験の結果は、諸所極く軽度なる陽性の成績を示した、人血色素沈降反応試験の結果は陰性であるが、その量極僅少なるため人血に非ずと否定し得ずとの記載がある。

(2) 鑑定人古畑種基の鑑定書によれば、

押収の鉈を分解して、ルミノールによる化学発光検査法及びベンチヂン検査法を隈なく施行した結果、何処にも陽性の個所を認めることができなかつた。従つて押収の鉈には現在血痕の附着を認めない、よつて以後の検査をすべて省略した旨の記載がある。

(3) 宮内義之介の昭和二十六年六月十二日附第三回公判調書における次の尋問に対する供述記載(記録第二冊一八丁末行から裏)。

問 鉈には血痕が附着していたか

答 鉈には血痕らしいものが附着していたが、量が僅少なため人血か否かについては判明しなかつたのです。

問 ベンチヂン試験の結果は鉈に血痕が附着しておつたか

答 ベンチヂン試験の結果、鉈については諸所に軽度の陽性が現われたのです。

問 ベンチヂン試験の結果、陽性反応が起る場合は如何なる場合か

答 人血の場合のみならず、植物のシミ、銅の錆が附着している場合にも、人血の場合と同様に陽性反応が現われるのであります。

そこで人血なりや否や試験したのですが陰性の結果が出ましたが、これは人血でないからか、量が少いからかが判明しないので、この結果から直ちに人血は附着せずと結論することはできません。

(4) 鑑定人古畑種基の昭和二十七年一月二十三日附第十五回公判調書における次の尋問に対する供述記載(記録第五冊四一丁表九行以下)

問 鑑定人作成の鑑定書によると領置にかかる鉈の刃の部分には血痕の附着を認めないという記載がありますが、若し鉈を兇器として使用し、その後水で鉈を洗つてしまつた様な場合、血は附着しないという鑑定の結果がでることがありますか

答 水で洗えば落ちて、その結果血痕は附着しないという鑑定結果がでる時もあるし、洗つても血痕附着するという鑑定結果のときもあります。又、鑑定検査を繰り返えす場合、例えば私が一回目に調べて血痕附着するとの結果を得ても、二回目に調べた場合には血痕が附着しないという結果がでる事があるように鑑定検査を繰り返すことにより血痕が消えて行くことがあります。

(ヘ) 押収にかかる「オシメ」二枚(昭和二十六年領第十九号の八)についての検討。

第一、押収の「オシメ」に血痕が附着しており、それを被害者方において領置したことにつき、

(1) 昭和二十五年五月七日附司法警察員作成にかかる検証調書の記載によれば、被害者秀世の掛布団上に被害者清のものと認められる血痕附着の「オシメ」二枚があつた旨の記載がある。

(2) 昭和二十五年五月七日附司法警察員作成の捜索差押調書(記録第一冊二三〇丁)によれば、右二枚の「オシメ」を領置した旨の記載がある。

第二、押収の右「オシメ」に附着している血液の状況等に関する各鑑定人の鑑定の結果は次のとおりである。

(A) 鑑定人宮内義之介の作成にかかる昭和二十六年四月十六日附鑑定書によれば押収の「おむつ」には人血痕を附着し、その血液型はAB型であるとの記載がある。

(B) 鑑定人野田金次郎作成にかかる昭和二十七年九月二十四日附鑑定書によれば、

(イ) 押収の二枚の「オシメ」は、かなり古い布片で作られたもので、処々に赤褐色斑を附している。因にこの一部をとつて型の如くベンチヂン反応、ルミノール反応、高山試薬によるヘモクロモゲン結晶検査、抗人血色素沈降素に対する反応をみると人血であつた。即ち処々に人血を附着している。

(ロ) 「オシメ」に血痕の附着している状況

肉眼的にそれとわかる部、即ち附箋の附けられてある面の附着側辺縁部に処々に並に、その裏面において、これを、そこに印してある「長浜納」なる文字を読める位置においた場合の下縁にそつて小斑部が散在している。それらは僅かながら内面にも浸透している部を認める。ピンを装されている方のやや小さく、たたまれた方の「オシメ」のたたまれたとおりの面においては、写真第二のような血斑を認める。しかし、その重ねられた部を翻転すると、その背面にも血液斑が散在する。更にたたまれたままでその背面にも血液斑が認められる。何れも一部布の裏面にまで浸透しているのを認める。次に特に指摘された部の血液斑について老察してみると、この部は大さ、形態等他の部の血液斑に比してやや特異的である。この血液斑の大体の大さは五糎―七糎位の幅で、長さ十数糎の間に、その一半は濃く、他の一半は薄く附着しているのを認める。この部は明かに布の裏面にまで血液が浸透している。右の各部を拡大写真により検してみると、その概要は写真第三―九に示した如くである。

多量に血液を含んだ部は写真第三の一部、第五、第六、第七、第八、第九の一部で全く糸全体に血液が浸透している。血液量の少ない部分では、布面で糸が凹んでいる部分には附着がなく、高所のみに部分的に血液の附着がみられる。更に糸から波生している繊維の走行についてみると、血液の附着している部も全く附着していない部に比して特異的な所見を示していない。かかる所見からみると、血液が附着するとき、布面にそつた方向に強く擦過されたと考えられる確証を認め難い。といつて全くそれを否定し得ないこと勿論である。即ち血液の附着したものを、この上に置いても、また、その形に血液の附着していたものの上に「オシメ」を置いてもできる、しかし血液斑の長袖にそつた両辺縁はかなり判然としているから、長袖に直角の方向に擦過したとは考えにくい。もし擦過したとすれば、長袖にそつて「オシメ」の外方に向つて擦過されたものであろうと考えられる。以上から考えると、この血液斑はその型、大さ等から見て押収の鉈によつても、かかる所見を呈すると考えられるが、それのみと指定しえない。とのべ最後の鑑定と題する章において

一、「オシメ」には肉眼的にそれとわかるとおりの部位、形態において血液が附着している。

二、その最大の血斑部についてみると

(1) 血液の附着した物体を「オシメ」の上に置いた時に生じたものと考える方が妥当と考えられるが他の方法を全くは否定し得る所見もない。

(2) 鉈(昭和二十六年領第十九号の四)に血液が附着している場合にもかかる所見は呈しうるが、これ以外の物体でも血液附着の形がそれと同様の状態下にあれば、このような血液附着状態を呈しうるから、この斑を生じた物体を何と指定することはできない旨の記載がある。

(C) 鑑定人村上次男作成にかかる昭和二十九年三月二十五日附鑑定書によれば、

押収の二枚の「オシメ」は木綿製、恐らく浴衣地と見られるもので、何れも甚しく使い古したものである。

押収された「オシメ」二枚の汚斑中には人血液を含むと考えられるものがある。

押収された「オシメ」に附着する人血液は一人の人から由来されたとすると、その血液はAB型の人のものであろうと考えられる。

押収された鉈に血液が附着していた場合、これを「オシメ」に置くとか、拭うとかし、且つその時鉈は「オシメ」をずれることや血液の着いた指が「オシメ」に触れることをも含むことを前提とするならば、その様な行為によつて現在押収の「オシメ」に見る大部分の血痕と似た形の血痕を作り得ると考えられる旨の記載がある。

以上の証拠によれば、押収の「オシメ」には人血が附着しており、その血液型はAB型である。また押収の鉈に血液が附着している場合、それを「オシメ」の上に置くとか拭うとかしたような場合は押収の「オシメ」に見るような血痕を作りうることが認められる。

以上の証拠によつても、被告人が押収の鉈を以て要蔵等を殺害し血のついた鉈をその場にあつた「オシメ」で拭いた旨の前記供述調書の供述は信用するに足るものと認められる。

(ト) 被告人の昭和二十六年三月十八日附司法警察員に対する第七回供述調書(記録第三冊二八六丁以下)の信用性についての検討。

この供述中

(1) 「戸袋の節穴から中をのぞいて見ると、電気がついていた」と供述しているが、前記検証調書添付の写真や当裁判所の検証の結果から見るも、該個所に小さな穴があつて、その穴から五畳間の要蔵等の寝て居た部屋に電燈がつけてあつたとすれば、部屋の内部は、よく見える状況にあるので、被告人の供述と符合する。

(2) 「大日堂の雨戸を外すのに雨戸の溝に鉈の頭の刃の所を巻きこんで持ちあげる様にして雨戸を外した」と供述しているが、実際に鉈の刃のようなものか薄い板のようなものを敷居の戸走りの溝に差込んで試験して見ると、容易に雨戸が外れたので、被告人の供述は実際と符合することが認められる。

(3) 「中仕切り板戸の側え寄り、表から二枚目の板戸に両手をかけて静に表の方え開けた」と供述しているがこの点の説明は前記被告人の司法警察員に対する第五回供述調書の検討のところで述べたとおりである。

(4) 「手や鉈の血は叔母さんの枕元にあつた「オシメ」で拭いた」と供述しているが、この点については前記被告人の司法警察員に対する第六回供述調書の検討のところで述べたとおりである。

(5) 「洋服やズボンに血がついていた」といつて図面にその血痕の附着個所を書いているが、この点は鑑定人宮内義之介作成の前記鑑定書の記載から見て間違いないものと認められる。

(6) 「電燈を犯行後現場から逃げ帰るとき消した」旨の被告人の供述は前記司法警察員作成の検証調書の記載と符合する。

(チ) 被告人の検察官に対する昭和二十六年三月十九日附供述調書(記録第三冊三十五丁以下)の信用性についての検討。

(1) この供述中「昭和二十五年五月五日の晩東京の中村秀子の家え運転手と職人と被告人の三人が一緒に泊り翌朝そこを出て後藤伝三郎方え寄つた」ことは証人稲本シゲの証言及同人の検察官に対する供述調書及び証人後藤伝三郎の昭和二十六年七月十一日の公判調書の供述記載により間違いない。又五月五日の晩にマルヤス産業の集金使込問題で被告人が謝り念書を差入れたことも右稲本シゲの供述記載や念書(昭和二十六年領第十九号の一)及び証人村山弥太郎の供述記載等に徴して間違いない。

(2) また五月六日の晩川間駅着の東武電車で帰り前田栄次郎方で自転車を借り午後十時三十分頃同家を出たことは後に(ハ)において認定する通り間違いない。

(3) 「大日堂の方の向つて左から数えて二枚目か三枚目かの雨戸を鉈の先を雨戸の下に押込み上の方に一寸こぢ上げるようにして開けた」旨述べておるが、このようにすると容易に開くことが出来る事は当裁判所の検証の際実験して見た事により明かであり、司法警察員作成の検証調書の記載によるも当時(昭和二十五年五月七日)要蔵方の出入口は、東側土間三尺雨戸のところと南側雨戸の戸袋のところと、北側に雨戸二枚があり裏側に出入することが出来るが、そこと、土間の入口には、何れも完全に輪鍵が掛けてあり、南側の戸袋内には竹製の心張棒を以つて完全に固く施錠してあつた事が認められ、椽の下からは入ることはできないことや、あげ蓋の二枚の板の上には、南京袋入白米一斗七升位が置いてあつた事も司法警察員の右検証調書の記載により明かである。従つて屋内に入るとすれば、被告人の述べたところの雨戸を外す外はないことが認められるので被告人の供述は真実に合致する。

(4) 「要さんの居る座敷の方には電気がついて居り、大日堂の方は中仕切の板戸が締つて居るので暗くて良く判りません、腰を少し、かがめて、そつと歩き表から二枚目の板戸を両手を当てて音のしない様に表の方え少し引き、自分の体が入る位の巾だけ開け兇行後、中仕切戸の間から大日堂の方え出て開けてあつた板戸を締めた」旨の供述が検証調書の記載と一致することは昭和二十六年三月十四日附司法警察員に対する第五回供述調書についての検討(3)に説明したとおりであるから、その説明を引用する。

(5) 「おばさんの布団のそばにあつた紐を取つておばさんの首え一巻か二巻か巻きその紐のもう一つの方を要さんの首に二巻位巻付けて縛つた」と供述しているが、この事についても司法警察員作成の検証調書添付の写真に徴し明かで、被告人の供述と合致する。

(6) 「紐で縛るとき、おばさんのそばえ鉈を置きましたが、紐で二人を縛り終つてから布団の脇にあつた「オシメ」で鉈の血と自分の手についた血を拭きました」との供述は押収にかかるおしめ二枚(昭和二十六年領第十九号の八)につき、先に(ヘ)項に記載の如く鑑定人野田金次郎、同村上次男の各鑑定の結果に照して十分真実性が認められるので、ここに右両鑑定の結果を引用する。

尚、被告人は「オシメ」のあつた個所につき「おばさんのそばの布団の脇にあつた「オシメ」と述べており、司法警察員作成の検証調書に「妻秀世の掛布団上には清のものと認められる血痕附着の「オシメ」二枚があつたとの記載とも一致するので被告人の供述は証拠と符合することが認められる。

(7) 「上衣の右の袖口あたりと、ズボンの裾の方に少しと膝の方に少し血がついていましたから、自宅え帰つてから、ズボンと上衣を脱いで押入れに押込み、別の上衣とズボンを穿いていましたが二日位経てから家人に分らない様に血の付いた上衣とズボンを自分で洗つて乾かした」と供述しておるが、この点については被告人は司法警察員に対する第七回供述調書に添付してある通り洋服の上衣やズボンに血液附着の図面を自筆しておることや、司法警察員に対する第五回供述調書の検討の(5)に記載してある宮内鑑定書の記載と対比して血痕附着の推測は間違いないものと認められる。

(8) 「私がその晩初めて気がついたものは玩具で、セルロイドの様な物で丸つぽいものでありました」と述べている点に対する認定は後記(リ)項において認定のとおりである。

(9) なお本供述調書は被告人が取調官が検事であることを十分認識して新な構想の下に任意に述べられた事は証人小西太郎の供述や「被告人の検察官に対する右供述調書に被告人の供述として「私は要さん夫婦と子供二人を殺ろしてお金を取りました、この事件については警察へ来て調べられる様になつてから成る可く罪を逃れ様と思い、小川警部さん、その他の方に色々嘘を申して来ましたが、どうしても私が申すことが通らないのと本当のことを申上げてお詑びしようと言う気持とその両方で少しづつ本当の事を申上げて来ました、何回も小川警部さんに申上げて調書を取つて頂きましたが、私のやつたことに相違ありません、それをもう一度検事さんに申上げます」と供述しておることによつても明かである。

(リ) 押収にかかる玩具(昭和二十六年領第十九号の七)についての検討。

(1) 被告人は検察官に対して前記の如く「私がその晩初めて気がついたものは玩具でセルロイドのようなもので丸つぽいものでした」と供述しており、また昭和二十六年二月五日司法警察員に対する第二十回供述調書(記録第四冊二三六丁)において「玩具の色は赤つぽかつた様で丸つぽいもので大きさは周囲が一尺二、三寸位で、セルロイドではないかと思つております」と述べており、また証人小川洋平は当公判廷(昭和二十八年七月十六日附第四〇回公判調書(記録第六冊一八六丁)において検察官の尋問に対して「玩具は押収しました、玩具について申上げますが現場の模様を私はすつかり忘れていたのですが、本田の自供によつて現場に丸つぽい、赤つぽい色のついた玩具があつたというので、その売先を調べたところ、その玩具は相沢勝という人の店で、古橋秀世に二、三日前に売つた事実がわかつた」旨述べており、証人藤崎源之助は前同日の当公判廷(同記録二〇六丁)において、検察官の尋問に対して「それにもう一つ重要な自供は「おもちやが現場にあつたのが目についたというので、どんなおもちやがあつたかと聞くと、丸つぽい柄のついた赤つぽい様な黄つぽい様なものであつた」というので、そのおもちやが何処から出たかを調べたところ木間ヶ瀬村役場前の店にそれらしき玩具があるので聞くと、同店のおばあさんがいうには、随分可愛想な事をした、母ちやんと一緒に来て、店にあつた玩具を取り、これと同じいので少し大きい形のを買つて喜んで行つたと、はつきり覚えており、その時期は事件の発生する二、三日前の事で、当時古橋方に出入りして居なかつた本田にはわかる訳がないのを現場で見たというのでした」と述べ、弁護人がその点につき同証人に対し「自供に赤つぽい、黄色ぽい丸い様なおもちやが現場にあつたというが、そういう自供ならば何でも当てはまるのではないか」との尋問に対し、証人は「しかし、丸いおもちやで柄の付いていると自供して居ります。但し、おもちやが現場にあつたろうという尋問は致しません」と述べて居り、相沢勝の昭和二十六年三月三日附司法警察員に対する供述調書(記録第二冊一四五丁以下)の記載によれば、同人は木間ヶ瀬村小作三、一九一番地で雑貨商を営み、昨年(昭和二十五年)五月六日夜、近所の砂南の大日堂に住んで居た古橋要蔵一家が殺された事は覚えて居ります。その当時も今の様に大概私は店番をして居りました、何でも殺された直ぐ前あたりの日頃と思います、午前中要蔵さんの妻で一寸名前は忘れましたが三十位が一人で自転車へ乗つて着物の縫針を買いに来て、木綿針の三の三、一袋五円、鉄製玩具の駒三個十円、鉄砲玉飴二十円位、合計三十五円位を買つて帰りました。それから今御話した外に、その一日か二日位前日頃と思います、矢張り午前中で十時頃、要さんの妻は小さな男の子をおぶつて、その上の五つ位の男の子は歩いて三人連れで私の店え来ました、大きい子には錻力製の自動車一つ、十円、小さい子には「セルロイド製の桃色その他の色は赤、青、黄三色の色に交互に色づけした、大体次の様な形の玩具」を一個二十円、それから一個二円の干菓子三十円位、合計六十円位を買つて行きました。私が今述べた話のセルロイド製の玩具を要さん等が殺された三、四日前に売つたことを何故覚えて居るかと申しますと、それは、私の祖母や家族の者と次の様な話をしたので良く記憶に残つて居ります。要蔵さん等が殺されたという話を翌朝聞いた時子供等迄殺されたとのことで、その時この間オモチャを買つて行つて嬉しがつて居たのに、もう殺されてしまつたか可愛想にと語つたのでありました、との供述記載がある。

(2) 右玩具に関する被告人の供述が捜査官の誘導によるものか否かの検討。

証人藤崎源之助の当公判廷の供述(昭和二十六年九月七日第八回(記録第三冊九八丁裏)中弁護人の「要蔵の家には小さい子供が居る、子供が居るのだから何か玩具があつただろう」という問いをしなかつたか、との尋問に対し、証人は「そういうことはなかつたですね、私の方でも重要な事件であつて、そういう捜査をして行くと、自分自身の犯罪捜査の心証が間違つて来るので「玩具があつたろう」等という問はしません、玩具があつたと被告人がいうので、ではどんな玩具かと聞くと、こんな玩具だといつて手真似で形を示して、それでは似て居るなと考えたのです」と述べ、又証人小川洋平は当公判廷(昭和二十六年六月十五日、第四回公判調書(記録第二冊一一八丁裏)において検察官の「証人は本田を取調べる時は何時も立会人を置きましたか」との尋問に対し「左様です本田君は頭の良い男ですから後でどんな事をいわれるかわからぬと思いまして、私も出来る限り慎重に取調べ常に立会人を二、三名つけ又取調の内容状況は全部私の手控に取つて置いてあります」と述べ、又、弁護人の「本田が本年一月三十日述べた供述として証人が先程述べた中に古橋要蔵方の中の様子を述べたところがありましたが、子供の玩具等があつたという様なことは被告人が任意に述べたのではなく、証人がこういう物は無かつたかという風に尋ねたのではないのですか」との尋問に対し「私は絶対にその様な尋ね方は致しません、と申しますのは最初に述べました様に本事件は出入の不明な事件であつて、捜査官として残された唯一の捜査の拠り所は現場の真相を知つているものは「星」即ち犯人と、私達警察の者数人であるという事だけでしたから、容疑者が犯人であるか、どうかの決め手は現場の模様を知つているかどうかにあると捜査の当初から考えて居たのでして、従つて容疑者に現場の模様を洩らしたのでは「星」は確信を以つて、掴む事が出来ないことを良く承知していましたから倉田先生の御問いの様な事は絶対に致しませんでした」又「二月二十八日窃盗事件につき保釈が許可となり三月一日本件に付逮捕されたのですから後二十日しか勾留日数がないわけですね」との問に対し「左様であります」「相当捜査に力を入れたことでしようね」との問に対し「私はもうその時は本田君の自供はなくとも送検しようと考えておりました」と述べておる点や本件記録全体を通じて被告人の述べている通り録取せられている点から見て司法警察員の被告人に対する質問は無理がないことが認められるので、右玩具に関する被告人の供述は誘導に基いたものでないと認めるを相当とする。

(ヌ) 家庭裁判所裁判官立沢貞義に対する昭和二十六年三月二十二日附被告人の供述調書(記録第三冊四十七丁以下)の信用性についての検討。

(1) 被告人は千葉家庭裁判所松戸支部の立沢裁判官の面前において古橋要蔵一家四人殺し事件につき一応否認したことが認められる。

(2) 裁判官が被告人に対して「然し真実は一つしかない訳であるが、それを認めたり否認したりするという事は、どちらかが真実と違う事になると思うが本当の事をよく考えて話したらどうか」とあるが、これは同裁判官が被告人に対して任意に真実を述べる事を説得したに過ぎないものと解すべきでその結果自白した場合には証拠として当然許容さるべきことは容疑の余地がない。

倉田弁護人は本件弁論において被告人が立沢裁判官より質問を受けた時自分は取調室の廊下で聞いて居たところ、被告人が否認したら、裁判官はそれでは警察ではどういう風に述べたか、その通りいつて見ろと被告人にいい、被告人が司法警察員に対し述べたことを繰り返して述べたものの如く陳述しているが、弁護人が被告人が取調べられる際聞いて居たという場所は、当裁判所一号法廷の裏にある少年係の部屋の外廊下であつたと陳べているのに対し立沢裁判官の少年本田昌三を取調べた部屋は調停用建物内で民事部書記課の隣にある調停室であることは、証人大塚儀平の供述記載(昭和二十九年六月十六日第七冊)に徴して明瞭である。

(3) この調書中「戸袋の小さな穴から家の中を覗いて見ますと、要さんもお内儀さんも和ちやんも赤ん坊も皆んな良く寝ている様子で云々――要さん達が寝ている座敷に続いた板の間にある鼠入らずが目に付きました」旨述べている点は当裁判所の検証の結果要蔵方の南側の戸袋に小さな穴があり、そこから夜間電灯が点いておれば五畳室に寝ている者の様子や板の間にある鼠入らずは良く見えるので、被告人の供述は真実性が認められる。

(4) 「私が以前同人方に出入りしていた頃同人はいつも、その鼠入らずの抽斗にお金を入れて置く事を思い出した」旨の供述は、高島悦子の司法警察員に対する供述調書中「秀世は生活費に使うお金や買物をする時などは、いつも板の間の処の白木の茶箪笥の下の方に抽斗が二つある。その右の抽斗に入れる時もあれば左の抽斗に入れる時もあります」と述べていることと合致している。

(5) 「大日堂の方に行き、そこの表雨戸を外そうと思い、持つて行つた鉈の先を雨戸の下に押入れ、上の方に一寸こぢ上げると直ぐ外れた」とある供述についての認定は検察官調書の検討中(3)に記載したとおりであるからここに引用する。

(6) 「要さん達の寝ている部屋と大日堂の中仕切りの板戸を開けて要さん達の寝ている部屋に入つた上兇行後、開けた儘にしてあつた中仕切の板戸の間から隣りの部屋え出てその板戸を足で締めた」との供述については被告人の司法警察員に対する第五回供述調書の信用性の検討中(3)のとおりであるからここに引用する。

(7) 「お内儀さんは未だ死に切れない様に少し動いておりましたので、鉈を布団の側に置き、そこにあつた細紐を同女の首に巻きつけ締めつけ、その紐の続きか同じ紐が二本あつたか記憶がありませんが、同じような紐で要さんの首を巻きつけ締めつけました」とある供述については先に検察官の供述調書の信用性の検討中(5)の認定と同様であるからここに引用する。

(8) 「締め終つてから、確か赤ん坊のおしめと思いますがそれで鉈と手についた血を拭きました」との供述については、前記司法警察員に対する第六回供述調書の信用性の検討において述べたとおりであるからここに引用する。

(9) 「鼠入らずの抽斗を開け、その内から確か二千三百円位盗つた」との供述については被告人の司法警察員に対する第四回供述調書の信用性の検討中(3)に述べたとおりであるからここに引用する。

(10) 「電燈のスイッチを切つて電燈を消した」と供述している点は司法警察員作成の検証調書中「電灯は六〇ワット一灯だけで要蔵の枕元辺上部鴨居より畳上四尺一寸位の位置に吊り下げてあり消灯の状態にあつたので試みに「スイッチ」を捻つたら点灯したとの記載と一致する。

(11) 「夜が明けてから気がついたのですが、ズボンの膝の下の方と上衣の袖口に血がついていましたので、二、三日過ぎて自分で水洗いして乾かした」との供述については被告人の司法警察員に対する第五回供述調書の信用性の検討中(5)に認定したと同様であるからここに引用する。

(12) 裁判官が被告人に対し「其許は要さん一家四人を殺して金まで盗つたという非常に悪いことをしたことになるが、その事について今どう思つているか」との問に対し、被告人は「要さん達に申訳ないことをしてしまつたし、家の人にも心配をかけましたので一日も早く出て、一生懸命働いて要さん達の供養をやりたいと思います、また家の人にも安心させたいと思います」と述べていることは被告人の心境を述べたもので被告人が真に本件犯罪を犯したことを物語る一資料である。

(五)  被告人の本件強盗殺人の殺害の手段方法が他からの伝聞に基いたものか否かについての検討。

被告人は昭和二十六年一月十九日附司法警察員に対する第十一回供述調書(記録第四冊一五〇丁以下)において、「昭和二十五年五月七日午前八時三十分頃、鶴岡義雄方え行つた際、鶴岡郷寿が自転車できて同人から要蔵が昨夜殺されたという話を聞き、また中村三郎からも、今朝、俺が木間ヶ瀬え行くと要さんが殺されたといつて、騒いでいた、頭をひつぱたかれて咽喉を紐で締められ、子供を踏んぢやぶして殺されちやつたらしい、何処も入つた処がないらしいから椽の下からでも這入つたぢやないかと話された旨」述べておるので、果して本件犯行の手段方法等につき被告人が鶴岡郷寿、中村三郎その他からの伝聞に基き想像により供述したものか否かを按ずるに

(1) 被告人は昭和二十七年二月二十二日第十六回公判調書(記録第五冊六二丁以下)において裁判長の質問に対して次のとおり述べている。

問 五月七日鶴岡と一緒に東京え行つたか。

答 行きません、私が鶴岡郷寿の話を聞いて、びつくりしていると、近所の中村さんが来て、要さんが殺されたということを知らせてくれました。

問 近所の中村さんは要さんが殺されたといつただけで詳しい話はしなかつたか。

答 その時は殺されたというだけだつたと思います。

問 するとその後になつて詳しい話を聞いているのか。

答 詳しいことは聞いておりません、ただ殺されたというだけでした。

問 中村さんからは要蔵が殺されたということだけしか聞かないのか殺され方を詳しく話されなかつたか。

答 判然しません、中村さんは四、五分居つてお茶を飲んで帰りましたが、鶴岡の家には自転車を預けて行きますから、その都度いろいろな話をして行きますから殺され方など誰から聞いたか、はつきりわからないのです。

と供述しておることが認められる。

(2) 証人鶴岡郷寿の昭和二十六年七月七日附裁判官に対する供述調書(記録第二冊二四九丁以下)

これによれば「同証人は自分は昭和二十五年五月七日午前七時頃古橋要蔵方の前を自転車で通つたことがある。自分の家から出て大工の石塚森三郎方裏までくると、駐在の川名巡査と東風谷亀之助が、自転車に乗つて、いそいで来たので、東風谷に何だ、そんなに急いでと聞くと、要蔵が殺されたといつて追越して行きました。そして要蔵方前の道路で自転車から下りて、それから要蔵の住家の近くの畠の脇に行き、立つて見ておりました。その時は近所の人が十人か十五人位私の立つていた所におりました。戸は全部締めてあり、川名巡査が要蔵方の表の左から二枚目あたりの戸を一枚外し順々に戸を左によせて行き、一人で家の中え入つて行き、すぐ出てきて、部落の人に、そこえ繩を張つてくれといつて行きました。自分は皆が繩を張り始めた時、そこから出て、川間の方え行きました。繩は縁側から三米位の距離の所に張りました。川名巡査が座敷に上つたことはわかりましたが、何処まで行つたかわかりません。川名巡査とは誰も一緒に中に入りません。川名巡査は一分位で家の中から出て来て戸を締めたと思います。附近の人が私の前に大勢おりましたから、私は布団位はちよつと見たかも知れませんが、それもよく見た訳ではありません。私は人の肩越しに見ただけですから何人殺されているか、何処に傷があつたか、どの様にして死んでいたのかわからなかつたのです」旨の供述記載がある。

(3) 証人鶴岡当志は、昭和二十六年六月十二日附第三回公判調書(記録第二冊五丁以下)において

「昭和二十五年五月七日朝、鶴岡郷寿が証人方にきて、古橋要蔵一家が血だらけになり、皆殺しにされたと話したが、郷寿は家の表から見たのだから、何で殺されたかわからない。要蔵さん達は枕を並べて殺されていたと申したが、その外の詳しい話は聞きませんでした」旨の供述をした記載がある。

(4) 平野英治の司法警察員に対する第一回供述調書(記録第一冊一五四丁以下)によると

同人は昭和二十五年五月七日私は家族と共に午前六時頃朝食をすまし、煙草を一服して苗床の手入をしておると、山口喜八が、大日堂が血だらけだと大声でどなりましたので夢中で東風谷亀之助と一緒に要さんの家え行きますと、近所の人が戸をあけようとしていたが開かないので、向つて右から二枚目の戸の下の方の破れた処から中をのぞいたら要蔵さんの女房の秀世さんが向うをむいているようで、血が手前の方に流れておる様でしたので、私は、驚いてしまいました。その前で騒いでおりますと巡査がきたので巡査のいわれるように繩を張りました」旨の供述記載がある。

(5) 証人川名貞雄の当公判廷の供述(昭和二十六年六月十五日記録第二冊九〇丁以下)によれば

同証人は自分は昭和二十五年五月頃は木間ヶ瀬村巡査駐在所に勤務して居りました。同年五月七日午前八時頃、金子明男が要蔵方え用件があつて朝早く行くと寝ているようで、再び行つて声をかけたが返事がないので、雨戸の破れ目から家の中をのぞいて見ると、おかみさんが殺されて居る様子で畳に血らしいものが見えたといつて駐在所え届けに参り、金子と二人で要蔵方え行つて見ると雨戸が閉つて居り、金子が、のぞいたという節穴から中をのぞいて見ると、殺人事件であると直感し、そこで同家前面の向つて左側の二枚目の戸を外し、之を立てかけ順々に左にくつて被害者の部屋の所まで送つて行き、現場を見て強殺事件と思い、直ぐ戸を閉め、東風谷亀之助が、そこえ来て居たので、現場を保存するため、金子と東風谷に繩を持つて来て貰い、要蔵方の廻りに繩を張り、東風谷等に見張りを命じて、直ちに私は駐在所に引返えし、署に事件を通報して再び現場に引き返し、現場監視の任に当り、県から鑑識課員の来るのを待つたのです。屋内には自分が一人入り、縁側迄上つて部屋の中が見えるまで近寄つた人はありませんと述べた記載がある。

(6) 証人小川洋平の昭和二十六年六月十五日附第四回公判調書における供述(記録第二冊九九丁以下)これによると

「自分は昭和二十五年五月七日木間ヶ瀬村の古橋要蔵方一家四人殺し事件の捜査主任を命ぜられました。現場え着いたのは五月七日の午前十一時頃で、受持の藤崎警部補等が一時間乃至一時間半前に到着して現場の保存に当つておりました。本部から捜査一課鑑識課員が現場え来てから、現場を見ようとして私等は皆繩張りの外の庭で待つておりました。鑑識課員が来たのは午後一時頃で、それから鑑識課長の指揮で、鑑識係が最初に現場に踏み込み、鑑識の仕事が終つてから私等も中え入りました。その時屋内に入つたのは写真技師、鑑識課長、捜査課長、藤崎警部補、蔬田、私等の極めて小人数で入りました」旨の供述記載がある。

(7) 以上を綜合して見ると、犯罪現場の詳細、殊に被害者が、どの様にして殺されたか、受傷の箇所、程度などは係官以外には外部に洩れる事なく現場は保存されたものと認め得られるので、被告人が殺害の方法や被害者の受傷の箇所等を供述しているのは伝聞に基き供述したとの陳述は信用することができない。即ち被告人は自らの犯行に基く実験事実を供述したものと認むべき一つの証左である。

(六)  被告人の本件強盗殺人の自白が捜査官の捜査の過程で知り得た知識に基き、それに添うよう誘導したものか否かについての検討。

(1) 証人小川洋平の昭和二十六年六月十五日附第四回公判調書における供述記載(記録第二冊一一九丁裏八行目より次丁表二行まで)によれば

「本件は出入の不明な事件で捜査官として残された唯一の捜査の拠り所は現場の真相を知つておる者は「星」、即ち犯人と、私達警察の者数人であるということだけでしたから、容疑者が犯人であるかどうかの決め手は、現場の模様を知つているか、どうかにあると捜査の当初から考えて居たので、従つて容疑者に現場の模様を洩らしたのでは「星」は確信を以つて掴むことができないことをよく承知していましたから誘導尋問はしなかつた」旨述べておる。

(2) 証人藤崎源之助の昭和二十六年九月七日第八回公判調書(記録第三冊九八丁裏)における供述記載によれば

「私の方でも重要な事件であるから「要蔵の家には小さい子供がおる、子供があるのだから何か玩具があつただろう」というような捜査を行うと自分自身の犯罪捜査の心証が間違つて来るので誘導尋問はしなかつた」旨供述して居り、また、検察官から「最初捜査に当つた人がヒントを被告人に与えたとかまたは被告人を無理に現場の状況に合せるような方法を取つたことはなかつたか」との尋問(同記録八九丁裏)に対し、同証人は「自分の方から被告人に材料を話し、こうではないかという様なことは勿論できないことであると考えており、私もそういうことはしないし、外の人もそういうことはしなかつたのです。私も終戦後の犯罪捜査として一家皆殺事件の如き大きな事件であるから誘導しては間違が起るので終始本当に任意に聞いて来たのです」と述べておる記載がある。

(3) 証人小川洋平の昭和二十八年七月十六日当公判廷における供述(記録第六冊一八九丁裏)によれば「自分は凶器を掛矢の類と思つていたのに意外にも鉈であつたとの被告人の自白であつた」旨の記載がある。

(4) 被告人の参考人としての司法警察員に対する第一回乃至第二十九回供述調書(記録第四冊六丁以下二七八丁並に被疑者としての司法警察員に対する第一回乃至第七回供述調書(記録第三冊八二丁以下二九七丁)を通読すると捜査官は被告人の任意に述べた供述を真偽その儘録取しておることが認められる。

(5) 以上の証拠を綜合して見ると被告人の本件強盗殺人の自白は、取調官憲が捜査の過程において知り得た知識に基き、それに合致するように誘導した結果なされたものでないことが認められる。右供述調書を通読すると、取調官は被告人の供述は一応その儘録取し、漸次真実に合致する供述を得るよう取調べ、性急に結論を得ようとする態度を避けていた形跡が明瞭に看取せられ、いかに取調べに慎重を期したかが十分に認められる。

(七)  被告人は本件強盗殺人の犯行前日、マルヤス産業株式会社の外交員として集金した靴代金の使い込みにつき追及され、その弁償のため犯行当時は金銭に窮していたか否かについての検討。

(1) 稲本捨次郎の司法警察員に対する昭和二十五年十二月八日附第一回供述調書(住居侵入窃盗、横領事件記録一六三丁以下)

これによると、「昭和二十五年五月五日に本田昌三が私共へ来て使い込みのお金の事で「ゴタゴタ」村山さん等と話しを致しました結果、本田が自分が真面目に働いて返済するといつて居つたという事であります。私の会社では各外交員とも各自が販売したものは各人で集金する事になつて居つたので、本田の販売先(外交先)の分を殆んど集金して先程申上げた通り使い込まれた様な訳であります。

本田の使い込みの件については所轄警察署へ話してやつて貰う考えで居りましたところ、千葉県の警察え挙げられて居るという話しを、千葉県から来て居る鶴岡靴屋が東京都文京区本郷の三倉さんに話したのを私は三倉さんから聞いて知つたのでありますが、その時本田は千葉県で闇屋殺しをした容疑で挙げられて居るという事を聞かされたのでありますが、飲むと本田という男は、まるで別人の様になるから、やりかねないと思いました。」旨述べた記載がある。

(2) 稲本シゲの昭和二十六年四月七日附検察官に対する供述調書(記録第一冊二一四丁以下)

これによると、本田昌三がマルマス産業の金を使い込んだ事について、本人を私方え呼び寄せ、色々尋ねた結果、本人も嘘がつききれなくなり、とうとうあやまつて働いてぼつぼつ返すという念書を入れた事があります。

それは昭和二十五年五月五日の事で、私方の事務所の二階応接間に本人を呼び寄せ、私と娘秀子と村山弥太郎の三人立会の上、村山が調べて来たところの集金の金額を元にして問い詰めました。初めは、ただ強情に黙つていましたが、いよいよ問い詰められまして、終いには秀子に渡した等といい、秀子から何処で渡した等と責められ、弁解がつかないので、大宮駅か何処かで酔払つて寝た時に盗られてしまつたのかなあ等ともいい、まるで責任のがれの様な事を申して、仲々謝りませんでした。本田は若いのに一升酒を飲み、時々女遊びもするらしいので、私の方から見れば月々の月給だけでは到底そんな飲み喰いや遊び等はできる筈のものではありませんから私も見るに見かねて正直な事をいう様にといつてやりました。そういう訳で夕方の五時頃から夜中の十一時頃迄ぶつつずけて責めたところ終には泣き出してやつとの事悪かつたと謝り前に申上げた様な念書を書いたのでありました。然し本田の方から素直に悪う御座いましたと心から謝つて来た訳ではないのでありまして、盗られたとか紛失したのぢやないか等といい乍ら渋々責任を負いますという事になつて、けりがついたのです。

私は若い者の間違いですから清く謝ればそれでよいのでありましたが、見えすいている嘘をついて強情をはつて何処までも通そうとするのには全くあきれてしまいました。とても十九やそこらの若い者のやり方ではありません。私等が問い詰めた時に弁解が出来なくなると真青になり、それでも黙つて口を開かずに居り、終にはとうとう涙を流し乍ら渋々謝つたのでした。初め村山が問い詰めた時には黙り込んで一切口をきかず、ふてくさつた様な様子をしていました。村山も腹が立つたとみえ、使つたなら使つたとはつきりいえと申しましたし、私も腹が立ち男らしくいいなさいと申しました。そういう訳でやつとこせと白状したのでありました。とも角も謝つて念書に名前を書きましたから、私としても若い者を見てやる処は見てやらなければなりませんから本田を事務所の二階から本宅の茶の間え連れて来て、ライスカレーを食べさせてやりました。もうかれこれ夜中の十二時頃になりましたから、若い者を、このまま返して若し間違いでもあつては困ると思つたので本宅のすぐ傍にある秀子の家え連れて行かせ、運転手の堀田常男と靴職人の清水功司と本田の三人で一つ部屋え泊らせました。本田は翌朝早く起きて私によろしく申上げてくれと二人にいい残して帰つたのであります。

念書を書いた時に今すぐ全部を返す訳には行かないから働いて月々御返しする。この事は鶴岡には、どうぞ黙つていて戴きたい。親の方えいわれても、親も金はないし自分も煙草銭や小遣にも困つている訳であるから、どうかよろしく御願しますという本人の挨拶でありました。本田は余程お金には困つていた様でした、旨の供述記載がある。

(3) 被告人からマルヤス産業株式会社宛の念書(押収にかかる昭和二十六年領第十九号の二)には左のとおり記載されておる。

念書

一、四月二十六日川間鶴岡氏宅に於て作成した念書中浦和野尻様分金四万七千八百円は自分として同日飲酒の上、全金額を紛失した事を証明致します。

二、相模屋八、〇〇〇、ユニオン二、五〇〇、大貫七、〇〇〇、平和堂三、七〇〇

右金二万一千二百円也(四店分)は四月七、八日頃に後藤伝三郎に託して手渡したものに相違なきことを証明致します。

三、浦和飯田靴店様分一万一千八百円也は私の不注意により紛失及費消した事を証明致します。

尚右の件につきましては会社にその処理を一任致します。

昭和二十五年五月五日

千葉県東葛飾郡川間村尾崎五〇番地

本田昌三 <拇印>

マルヤス産業株式会社 殿

(4) 証人村山弥太郎の昭和二十六年八月一日第六回公判調書における供述(記録第二冊三四六丁以下)によれば、

被告人本田は昭和二十五年四月頃、マルヤス産業株式会社の外交員をやめたが、得意先から集金した靴代金が会社の方に入金になつていないことがわかつたので、被告人本田の身許保証人をしていた鶴岡義男を、千葉県東葛飾郡川間村尾崎(川間駅前)の店に訪ねて行き事情を話し、被告人本田を同店に呼んで貰い、集金のことについて質問したところ、本田は中村秀子に渡したと答えたので、その後秀子に聞いて見ると受取つていないといい、双方のいうことが喰い違うので、その後、昭和二十五年五月五日の晩、マルヤス産業株式会社の二階で証人や中村秀子と稲本シゲが集り、被告人本田を午後五時頃から十一時頃まで主に中村秀子と稲本シゲが問い詰めた結果、本田はやつと事実を認めて、私が書いた念書に名前を書いて押印しました。その念書というのはお示しのものに間違いありません(押収の昭和二十六年領第十九号の二を示す)旨の記載がある。

(5) 後藤なかの検察官に対する供述調書(記録第二冊三二二丁以下)によれば、同人の供述として昭和二十五年四月頃から五月初頃までは、被告人本田昌三は何時でも、たいした金は持つておらず、電車賃がないといつて百円位宛貸した旨の記載がある。

(6) 被告人の司法警察員に対する昭和二十六年一月二十七日附第十六回供述調書(記録第四冊一七五丁以下)によれば

「被告人はマルヤス産業株式会社の外交員として、昭和二十五年三月三十日以降同年四月二十六日までの集金総額は九万八百円で、その内中村秀子に二万九千円渡し鶴岡義男に三万円貸し、自分の懐に入つた金が三万一千八百円で遊興費や後藤伝三郎方の謝礼二千円を含め支出金合計二万九千九百円で、昭和二十五年四月末日の手持金は千九百円で、同年五月一日から六日迄の費消金合計千二百九十円で手持金は六百円しかなかつた」旨の供述記載がある。

(7) 以上の証拠から見ると、被告人は本件犯行当時は金銭に窮しており、マルヤス産業の使込金約六万円の返済について鶴岡義男には黙つていて貰いたいと頼み、親の方にいわれても親は金はない、自分は煙草銭にも困つており、マルヤス産業の使込金を如何にして調達するかにつき苦慮していたことが認められる。

(八) 被告人は前記司法警察員に対する第七回供述調書及び検察官に対する供述調書において「昭和二十五年五月六日の晩、前田栄次郎方から自転車を借りて、古橋要蔵方え行つた旨」供述しておるので、果してその供述のような事実があつたか否かについての検討。

第一、被告人の供述を基礎にして昭和二十五年五月六日の被告人の行動を調べて見ると、

(1) 被告人の司法警察員に対する昭和二十五年十二月四日附第一回供述調書(記録第四冊六一丁以下)によれば

被告人は古橋一家の殺された昭和二十五年五月六日に東京都北区稲付町の後藤伝三郎方え午前七時二十分川間駅発電車で遊びに行き、午後九時五十分川間駅着の終電車で帰り、鶴岡靴店に寄り午後十一時頃帰宅した旨述べておる。

(2) 同年十二月六日附、同第三回供述調書(記録第四冊八一丁以下)によれば

被告人は五月六日は、夕飯を後藤伝三郎方で頂き午後七時頃、後藤方を出て、大宮駅から午後九時五十分の終電車で帰つた旨述べておる。

(3) 同年十二月九日附、同第五回供述調書(記録第四冊九四丁以下)によれば

被告人は昭和二十五年五月六日は東京の中村さんや後藤さんの処へ行つていた、その夜は尾崎の実家へ帰り寝て居たから五月六日当日の行動や所在は、はつきりしている旨述べておる。

(4) 昭和二十六年一月六日附同第八回供述調書(記録第四冊一二一丁以下)によれば

被告人は同二十五年五月五日はお節句で雨が降つており午後後藤方で柏餠をくれ町屋のマルヤスへ行こうとして出かけて会社へ行き、稲本のお宅へ伺つた、奥さんが同会社の二階に案内し村山弥太郎と中村秀子が来て集金につき交渉し、その時被告人は酔払つて紛失したとか奪われたといいのがれをしたが結局自分が責任を持ち、お返しするからという事で村山さんが念書を書いてくれた、その晩は村山さんや秀子さんと相当口論し、秀子と一時間半口論し、その晩は秀子方へ泊めて貰つた。五月六日は朝早く目を覚し、そのまま出て赤羽の後藤方へ行き、午前中は後藤方に居り、昼食後後藤と二人で中村貫一方へ行き、一時間後後藤方へ帰り、それから明日後藤の子供が幼稚園の遠足に行くのに金がないといつたので、後藤と二人で浦和まで行き野尻靴店から二千円集金して内千円を後藤に渡して別れ、被告人は大宮駅附近で酒を飲み午後八時半頃の大宮駅発の東武電車で九時五十分川間駅着で帰り、鶴岡靴屋へ寄り十一時頃まで話して帰宅し寝た旨述べておる。この供述を稲本シゲの検察官に対する供述調書の記載(記録第一冊二一四丁)及び同人の当公判廷の証言や念書(昭和二十六年領第十九号の二)と対照すると、五月五日の晩に被告人はマルヤス産業の二階で集金問題につき前後約四時間に亘り追究せられて、渋々事実を認め念書を差入れその晩は秀子方に泊つたことがわかる。従つて右(1)の供述は嘘であることがわかる。右集金問題で前後四時間も問い詰められ、念書までも差入れ、その晩秀子方に泊り翌朝早く同家を出た事実は相当強く、被告人の脳裡に浸み込んで居つて半年や一年で到底忘れられるものではないものと認めるのが相当である。(これは経験則から見て相当である)

(5) 次に昭和二十六年一月十七日附、第十回供述調書(記録第四冊一四二丁以下)によれば

被告人は五月五日の晩、マルヤス製靴の稲本社長の娘秀子の家へ泊り、翌朝早く出て赤羽の後藤方を叩き起こし、朝飯を御馳走になり、ぶらぶらしてお昼を頂き中村貫一方へ行き後藤方へ午後四時か四時半頃帰り、午後五時三十分後藤方をおいとまして赤羽駅午後五時四十分の電車に乗り大宮駅を廻り川間駅午後七時頃の電車で帰り、その足で駅前鶴岡靴店に寄り一時間程お茶を飲み尾崎の実家え帰つたのは午後八時過でその時裏の長さんの若い嫁が風呂には入り、おぢいさんが帰るところでした一時間半位家におり午後十時近くになり野田え行つて遊んで来ようと思い、鶴岡方え行つて来るからと家の者に嘘をついて家をでかけ、直ぐ近所の前田さんという飲み屋へ行き、一杯飲んでから野田え出かけるつもりで同家え立寄り、焼酎二杯と一枚五円のせんべい四枚を二十分位で飲食し、前田のおばさんが、ところてんを一杯御馳走してくれ、勘定百二十円位払つた。私方に自転車があつて壊れていないので乗れたが、自分の家の自転車に乗つて遊び廻つたり泊つたりしたのでは、お父さんに叱られるので前田方の自転車を借りて行く気で出かけ、勘定を払う時、前田のおばさんに今夜自転車を貸して下さいと申すと、お父さんに聞かないとわからないからといつて父ちやんを呼ぶと、おぢさんが出てきて、右側の釜場から前輪の「ノーパンクタイヤ」黒塗りの古い自転車を出して呉れた、電気を貸して下さいと頼んだが無いといつたので、無燈火のままでかけ野田のパンパン屋え午後十一時半頃着き、六百円で遊ぶ約束をした。翌朝七時半頃前田方へ着き自転車を返した旨述べておる。

(6) 昭和二十六年一月二十一日附、同第十二回供述調書(記録第四冊一五六丁以下)によれば

被告人は、昭和二十五年五月六日の晩は、野田え遊びに行つた。相手の女に東京の靴屋の外交で靴を買う時は安く買つてやる、休みの日には浅草の国際劇場へ連れて行つてやろうといつた。野田へ女遊びに行つた事は二回で昭和二十五年五月二十日鶴岡の自転車で新川屋へ行つた。前田から自転車を借りて行つたのは一度しかなく五月六日の晩は確にパンパン屋へ泊つた旨述べておる。

(7) 昭和二十六年一月二十二日附、同第十三回供述調書(記録第四冊一五九丁以下)によれば

被告人は、「昭和二十五年五月六日当夜、私が前田方から自転車を借りて野田へ遊びに行つたということを申述べて来たのでありますが、或は何処え行つたのか考え違いもある様に思いますから、これから留置場え帰つて、よく考えて、その当時のことを紙に書いて見たいと思います。そして考えながら書いて見れば、はつきりしたことが思い出せると思います」旨述べておる。

(8) 昭和二十六年一月二十三日附、同第十四回供述調書(記録第四冊一六五丁以下)によれば、被告人は、

「昭和二十五年五月六日夜は野田え行つたような気がするし、家へ帰つて寝たような気もするし、その外何処え行つたという覚えはない」旨述べておる。

(9) 昭和二十六年一月二十四日附、同第十五回供述調書(記録第四冊一六九丁以下)によれば、被告人は、

「昭和二十五年五月六日の晩、前田方から自転車を借りて午後十時三十分頃出かけたのは、良くわかつておりますが、私が行つた先は、はつきりわからない」旨述べておる。

(10) 昭和二十六年一月二十七日附、同第十六回供述調書(記録第四冊一七五丁以下)によれば、被告人は

「昭和二十五年五月六日午後十時頃、野田え遊びに行こうと思い、近所の前田方え行き焼酎コップ二杯、ラムネ一本、おせんべい二十円計百円飲食し、自転車を借りて午後十時三十分頃出かけ一旦自分の家え立寄り母親え、前田さんの家え行つて来るからと声をかけ、無燈火のまま出かけたが、それから先は今だに何処え行つたのか思い出せません。自分ではどうも野田のパンパン屋え行つたような気がする」旨述べておる。

(11) 昭和二十六年一月三十日附、同第十七回供述調書(記録第四冊一九三丁以下)によれば、被告人は

「昭和二十五年五月六日の晩、前田さんから自転車を借り、その晩は砂南の要さんの家え行つたことが思い出せた」旨述べておる。

(A) 右(1)乃至(11)を綜合しての認定。

右(5)(6)では五月六日の午後十時過、前田方から自転車を借り野田えパンパンを買いに行つたと述べ、(7)では五月六日の晩は何処え行つたかよく考えて見たいと述べ、(8)では五月六日の晩は野田え行つたような気もするし、家え帰つて寝たような気もすると述べ(9)では前田方で五月六日の晩午後十時半頃自転車を借りて出たことはわかるが行先は、はつきりしないと述べ(10)では五月六日の晩は前田方で自転車を借りて午後十時三十分頃出かけたが、それから先はわからない、野田のパンパン屋え行つたような気がすると述べ(11)では五月六日の晩は前田から自転車を借りて砂南の要さんの家え行つたことが思い出せたと述べておるが自転車を前田から借りた日時の点については終始五月六日を主張して変わらないことが認められる。

(12) 昭和二十六年三月二日附同第一回供述調書(記録第三冊一九五丁末行以下一九九丁裏終りから三行目)までの記載によれば、被告人は、

「昨年(昭和二十五年)の六月六日の夜、私と一緒に闇屋をやつたことのある要さんが殺されたことについてお尋ねの様ですが、私はあの晩近所の前田栄次郎さんの家から自転車を借りて確かに要さんの家え行つたのです。

午後十時過野田さんえ行つて遊んで(女遊びの意)来ようと思い、それには家の自転車に乗つて行つたのでは父ちやんに後で知れると叱られるので鶴岡え行つて来ると嘘をついて家を出かけました。その時どうせ遊びに行くなら一杯飲んで出かけ様と思い、それには近所の懇意な前田さんの家が飲み屋であり、前田さんの家え行けば必ず自転車も貸して呉れるという当があつたので前田さんの家え行きました。そして十時ちよつと過ぎた頃、前田さんの家え着きますと、まだ起きていて、お店の電気がついておりました。硝子雨戸はまだ鍵がかけてありませんでしたので「今晩は」と声をかけて硝子戸をあけ中に入りますと「はーい」と返事をして前田の叔母さんが座敷の方から出てきました。そこで「叔母さん焼酎ある」と聞きますと、あるといいましたので一杯下さいと注文しお煎餠を四枚位自分で取つてきて、それを食べながら焼酎を飲みました。コップ一杯は七勺位でしたが、それが半分位減つた時にラムネを下さいといつてラムネを一本もらい焼酎を割つて飲みました。焼酎を飲んでおる時「トコロテン」を一杯食べなさいといつて出してくれました。そろそろ焼酎を飲み終る頃になつて「叔母さん自転車を貸してよ」というと「何処え行くんだい」と聞いたので「東京え泊ちやつて家え帰るのがまづいから、野田えでも行つて泊つてくるんだ」といいますと「父ちやんに聞かないとわからないから」といいながら叔父さんを呼びますと前田さんが出てきて叔母さんに此方の自転車を貸してやれといいつけますと、叔母さんが釜場から私に貸してくれる自転車を出そうとしてくれたので、私がすぐその自転車を借りて一旦外え出し焼酎の勘定を払いました。何でも百円だつたか百二十円だつたかでした。その晩は曇つて真暗でしたので「叔母さん電気を貸して下さい」と頼みますと、「電気がないのよ」と断られたので無燈火で出かけたのです。

前田さんから自転車を借りて出かけた時間は大体十時半頃だと思います。最初は野田え行こうと思つたのですが、お金が五、六百円しかありませんでしたので家え寄つて金を持つて行こうと思つて県道え出て右え曲り鶴岡靴店の先まで行つた時「まあまあいいや要さんの家えでも行つて見よう」と思い直し家えは寄らずに真直ぐ要さんの家え向つたのであります。要さんの家え入るちよつと手前は水溜りがあつた様に思います。要さんの正面の門口を入ると直ぐ道が悪くて、ぐちやぐちやしていた所がありました。要さんの家え着いたのが十一時半頃の様に覚えております。それは前田さんの家を十時半頃に出かけたので道が悪いのと、無燈火の儘でしたので一時間位はかかつたと思うからです。

自転車に乗つたまま鳥小屋の前迄這入り、そうつとスタンドを立て、ハンドルを便所の方え向けて置きました。土間の三尺雨戸の側え寄つて「今晩は今晩は」と二声か三声起こしたのですが、家の中が「シーン」として返事がありませんでした。私はこれはもう夜更けたので寝てしまつたなと思い無理に起こしては悪いなと考えて家の中をのぞいて見る気になり、自転車をその儘にして表え廻つて見ますと戸袋の中程より少し右寄りの丁度私のへそ位の高さの所に蚕豆位の節穴があつて電気の光が洩れておりました。私は少しかがんで最初は右の目を穴に当てて中をのぞき少しして左目を当てて中の様子を見たのであります。

家え帰つて見ると家族の者が寝ておりましたので「かあちやんかあちやん」と二声三声呼びますとかあちやんが寝巻の上え着物をちよつと引つかけて起きて硝子戸を開けてくれ「何処え行つてたんだ」といいますので前田さんの家え行つて博奕を見て居たんだと返事をすると私の持つていた自転車を見つけて「早く自転車を返してこい馬鹿野郎」とおこられましたので直ぐ前田さんの家え自転車を返しに行つたのです。

その時自転車は前輪も後輪も泥がついて汚れておりましたが早く返さないと悪いと思いまして掃除もせずに返しに行つたのです。

私は自転車に乗つて桜井さんの家の前を通り吉川さんの角を右え曲り前田さんの家の硝子戸の前に自転車のスタンドを立てて「お早う叔母さん自転車有り難う」と声をかけますと叔母さんがお勝手で朝飯の仕度をしておる様でしたが、すぐ表えきて硝子戸をあけてくれ「悪いけど裏の木戸の中え入れて置いて下さい」といいましたので、すぐ左側え廻つて裏の廊下の前の庭えハンドルを駅の方え向けてスタンドを立てて置き「有難う御座いました」とお礼をいいました」旨述べておる。

(13) 昭和二十六年三月五日附、同第二回供述調書(記録第三冊二三七丁から二四二丁表二行まで)の記載によれば、被告人は、

「五月六日(昭和二十五年)の晩、私は早く野田え行きたいと思つたのですが、父ちやんがまだ起きておるので、すぐ出かける訳には行きませんでした。その時お金が八百円位あると思つておりましたので、どうやら野田で一晩は遊んで来られるという気持でおりました。私の家には古い自転車があるのですが、せいぜい両方のタイヤの空気が三十分程しか持ちませんので、前田さんの家で焼酎でも飲んで、自転車を借りて行くということを考えたのです、ただ自転車を借りて行くのは悪いと思いましたので、そんな考えをしたのです。前田さんの家え行き焼酎を飲みながら自転車を借りて勘定を済ませて見ると自分の持つている金では、野田え行つても泊るだけはできますが、焼酎一杯飲むこともできない、その金を使つてしまつては明日から煙草も買えなくなるので余程家え寄つて金を貰つて行こうと思いましたが、要さんの家え行つて見ようかなと考えて要さんの家え行つたのです」旨述べておる。

(14) 昭和二十六年三月十五日附同第六回供述調書(記録第三冊二八二丁表七行から裏五行まで)の記載によれば、被告人は、

「私が五月六日(昭和二十五年)の晩近所の前田さんの家から自転車を借りて要さんの家え行くのに家を出かけたとき風呂場の中にあつた鉈をズボンの左脇の腰のところに刃の方を下にしてズボンの中に入れ、ズボンのバンドで柄と刃の中間当りを挾んで背広を着て見えないようにして家族の者に内緒で持つて行つたのです」旨述べておる。

(15) 昭和二十六年三月十八日附同第七回供述調書(記録第三冊二八六丁から二八九丁裏五行まで)の記載によれば、被告人は

「昨年五月六日前田さんの家え行き焼酎一杯半だか二杯飲んで前に記したように自転車を借りて十時半頃、前田方を出て要さんの家え出かけました。要さんの家え着いたのが十一時半頃でした。云々」旨述べておる。

(16) 被告人の検察官に対する供述調書(記録第三冊三六丁四行目から四四丁裏八行まで)の記載によれば、被告人は、

「昭和二十五年五月六日の晩、野田のパンパン屋え遊びに行きたくなり、自宅の自転車は空気が抜けるので、まづいから借りようと思つて前田さんのところえ行きました。焼酎一杯半か二杯を煎餠をさかなにして飲み「トコロテン」を御馳走になりました。御飯を食べた後なので、飲みたい訳ではなかつたが、自転車を借りるのに具合が悪いから、そのために飲んだのです、自転車を借り焼酎等の代金を百円いくらか払いました。おばさんには野田え遊びに行くから明日の朝まで貸してくれと申したように思います。お金を払つてから、ふところの金がせいぜい八百円位であつたことに気がつきパンパンを買えば六百円位はかかるし、そうすれば明日から小遣銭もなくなつてしもうので野田行きをやめる気になりました。そこで久し振りに、要さんのところえ遊びに行く気になりました。前田さんのところを出たのは、十時半頃かと思います。自転車で県道の方え出て、それから先は小川警部さんに申上げたような道順で真直ぐ要さんのところえ行きました(中略)それから翌朝直ぐ前田さんえ行き自転車を返しました」旨述べておる。

(B) 右(12)乃至(16)を綜合しての認定。

右の証拠を綜合して見ると、被告人は昭和二十五年五月六日の晩十時過頃、近所に住んで飲食店をしておつた前田栄次郎方え行き焼酎を一杯半か二杯位にラムネ一杯を交ぜて煎餠四枚を肴にして飲み「トコロテン」を御馳走になり、その飲み代百余円を支払つて、同家から野田え遊びに行くのだから明朝まで自転車を貸してくださいと頼み前田栄次郎の妻が主人に貸してもよいかどうかを聞いた上、こちらの自転車を貸せと栄次郎がいつたので、その自転車を借りた、その晩は曇つていたので電気も貸して貰おうとしたが電気はないといわれたので無燈火で同家を十時半頃に出たが、所持金が五、六百円しかないので鶴岡靴屋の先まで行つた時、要蔵方え行つて見ようという気になり無燈火で道も悪かつたので、一時間位かかつて十一時半頃要蔵方に到着し、自転車を要蔵方の鳥小屋のところにスタンドを立てて置き戸袋の中程より少し右寄りの被告人の「へそ」位の高さのところにある蚕豆大の節穴から電気の光で家の中をのぞいて見た、(それから中に入り兇行を演じたことは、ここでは省略する)翌朝前田方に自転車を返しに行くと栄次郎の妻が朝飯の仕度をしておつて裏木戸の中え入れて置いてくれといつたので左側え廻り裏の廊下の前の庭へ入れてきた、自転車は前輪も後輪も泥がついて汚れていたがそのまま返したことが認められる。

かように前田方から自転車を借りた時、同家で飲食したことの詳細を記憶しており、翌朝早く前田方え返しに行つた時の模様を判然と述べており、五月六日の晩曇つていて暗かつたこと、無燈火で行つたことなどを明瞭に述べておる。

以上のことから見て被告人が昭和二十五年五月六日の晩前田栄次郎方から自転車を借り古橋要蔵方へ行つた旨の供述は真実性が認められる。

第二前田栄次郎の検察官に対する供述調書の検討。

次にこの点につき前田栄次郎は検察官に対する昭和二十六年三月二十八日附供述調書(記録第二冊一九八丁以下)において次の如く述べている。

本田方の隣りから現在地に家を新築して移転したのは昭和二十四年十二月十五日で、本田昌三が新築した私方え来たのは全部で三回で、最初は新築して間もない頃で、昭和二十五年二月頃のように思う。その次は同年四月末頃か五月初旬の夜で木間ヶ瀬の殺人事件があつた前で、私方で昌三さんに自転車を貸した時であります。三度目は、あの事件があつてから後で鶴岡靴店が東京え引揚げ、昌ちやんが東京の鶴岡の店え勤めるようになつてからで、日曜か何か利用して東京から川間え帰つて来たように思います。木間ヶ瀬事件のあつたのは昭和二十五年五月六日の夜の出来事であることはその翌日午後、川間駅前で闇屋に聞き初めて知りました。本年一月になり突然私の住込先の大塚の飲食店江戸平え相川さんが訪ねて来て、昌ちやんに自転車を貸したことはないかと尋ねられ、突然のことで思い付かなかつたが、よく考えて見ると確に一回あつたのでそのことを申上げました。処が貸した日時は何時であるか、はつきり思い出して貰いたいとのことでしたが、何月何日ということはわからず、とに角昭和二十五年四月末か五月初頃の夜九時半頃に貸してやり、翌朝早く返しに来たことは覚えて居るのでそのことを申上げました。私の記憶を整理して、もう一回申上げます。とにかく昭和二十五年四月末か五月初頃で木間ヶ瀬事件が起つたよりも前であることは間違いありません。時間は大体九時半頃と思います。私が床の中で新聞を読み終つてまだ目があいている時です。今晩はという声を聞いて家内が店え出て鍵をあけて、その人を店え入れました。暫くして家内が私の所え来て申すには昌ちやんが昨夜は東京え泊つたので今夜は家え帰りにくいから、これから野田え遊びに行くので自転車を貸してくれとのことで私は野田のパン助の処え遊びに行くのだと思い、家内に対して俺のは貸せないが子供のなら貸してよいといい、家内は長男和男の自転車を昌ちやんに貸しました。翌朝七時頃起きて庭を見ましたら貸した自転車が置いてありリームは、たいして汚れていないがタイヤが汚れて居りました。家内に聞いたら六時頃返しに来たと申して居りました。自転車を貸した日が五月六日であるかどうかは、はつきり致しません。ただ、はつきり申上げることの出来るのは私方前の新道の拡張工事が出来あがつた後で、しかもその四、五日後に私方で工事をした若い人達が十二、三人で宴会をしたことがあります。それより少し後であることは、はつきりと覚えて居ります。

拡張工事が出来たために私方前の土が削り取られて道が低くなつたから私方の入口の前に木の橋を作つたのですが、家内が申すには自転車を貸した時には、その橋が出来て居たと、はつきり申して居りました。また私が板前となり、宴会の料理を作つてやり、その後間もなく自転車を貸したことは記憶して居ります。また私方には自転車が二台あり、一台は私専用でもう一台は長男が中学え毎日通うのに使つて居り、私の車は誰にも貸さないようにして居るので子供のを貸したのですが、長女栄子に聞いてみたらあす(明日)お兄ちやんの学校がお休みなのであり、あの晩お兄ちやんの自転車を貸したのだと申して居りますから、貸した晩は土曜日の晩だと思います。また五月二日は日掛無尽の寄合で溝口明方え行きましたが、私は風邪気味で、オーバーを着て行き、その晩は十時頃帰つて来て寝ました。三日、四日は風邪気味のため夜は早く寝ました。五日は端午の節句で末子の初節句で染谷さんに柏餠を二升搗いて貰い、それを私が雨の大降のところを取りに行こうとして仕度して居るところへ染谷さんが持つて来て呉れたので、良く覚えて居ります。そしてこの二、三、四、五の四日の中に、どうも自転車を貸した日が当らないことは、はつきりして居ります。そういう訳で確かに五月六日の晩自転車を貸したとは断言することは出来ないのですが、とにかく四月末頃か五月初頃であることは間違いないと思うのです。昌ちやんに自転車を貸したのは後にも先にもこの時たつた一回であります旨述べている。

第三次に右前田栄次郎の検察官に対する供述調書において述べておる事柄は信用するに足る裏付証拠がある。このことは次の(1)乃至(7)の証拠によつて認められる。

(1) 前田栄次郎は、被告人が前田方から自転車を借りるとき前田たかに対して「昨夜は東京え泊つた」と述べて居る点で、これは(1)被告人の司法警察員に対する昭和二十六年一月六日附第八回供述調書の記載や、(2)稲本シゲの検察官に対する供述調書の記載により明かであるように、被告人は昭和二十五年五月五日の夜、東京のマルヤス産業の二階で、稲本シゲ、中村秀子、村山弥太郎等から前後約四時間に亘り靴の代金集金横領事件に関して詰問せられ、渋々事実を認めて念書を差し入れ、その晩は中村秀子方自動車運転手の部屋え運転手の堀田常男や靴職人清水功司等と泊つたことと符合する。

(2) 「自転車を貸した日は、昭和二十五年四月末頃か五月初頃で木間ヶ瀬事件の起きた前であることは間違いありません。貸した自転車は子供の通学用に使用していたもので、翌日は日曜日で乗らないから貸したので、貸した日は土曜日の晩だと思います」と述べておるが、押収にかかる暦(昭和二十六年領第十九号の三)によれば昭和二十五年五月初旬の土曜日は六日であることが認められる。

(3) 「前田方で五月五日の節句の餠を染谷産婆方に頼み雨の降つておる中を取りに行こうとしていたら染谷方から届けられた」旨述べておるが、この点について、

染谷美代は昭和二十六年二月二十四日附司法警察員に対する供述調書(記録第六冊四二三丁)において次のとおり述べておる旨の記載がある。即ち、

「私は先日も警察の方に対し川間村尾崎の前田栄次郎さんえ餠を搗いてやつたことについて述べ、なお、その時に私の日記帳も写真にうつしたことがありましたが、今日も、お尋ねがありますので述べたいと思います。先日申し述べたのは、昭和二十五年五月五日のお節句の日に、私の夫庄作が雨の降つて居る時、自転車え乗つて前田さんの家え粳米で搗いた柏餠用の餠を二升持つて行つてやつたことを述べたのでありましたが、その外に月遅れの節句の時も粳米で搗いた柏餠を作るため餠を矢張り二升搗くのを頼まれたことがあります。その月おくれというのは、東京の節句(五月五日)の時から一ヶ月後に行う節句で、六月五日にやるのが月おくれの節句であります。今述べた月おくれの節句の日には前田さんの伜の和夫さんという新制中学一年か二年生位の男の子が午前九時前後頃、自転車へ乗つて私の家え取りに来たのであります。その子供は多分、おはち(御飯を入れるもの)の蓋を持つて布きんも持つて来たと思います。おはちの蓋ということは、私がその子に対し丸い入れものだから落ちない様にしばつて行きなさいと注意したので覚えて居ります。それですから五月五日と六月五日の二回搗いてやつたのであります。二回とも二升づつで餠の種類は二回とも粳米でついた柏餠用の餠であります。五月五日と六月五日の時の異る点は私の夫が届けてやつたのと、六月五日の時は和夫さんが取りに来た。五月五日の時は雨が降つて居た、六月五日は天気が良かつた、五月五日の時は柏の葉を私の家から持つて行かないが六月五日の時は和夫さんに私の家からくれて持たせてやりました。五月五日には東京幡ヶ谷の叔父染谷三郎が居なかつたが、六月五日は叔父の染谷三郎が私の家に宿つて居たので、その異つたことを、よく覚えて居ります。私の日記(金銭出納簿を利用したもの)に五月五日の分には(百六十八頁)「前田でたのまれて餠を持参す二升分」と鉛筆で誌しておりますが、この部分は先日写真を撮りましたが、同じ日記百六十六頁の六月五日の分には矢張り鉛筆書きで「節句にてカシワマンヂュウ作つた幡ヶ谷宿る」と書いてあります。この日記は五月分の部分は百六十八頁で、六月分が百六十六頁で一寸見ると変に思われますが、金銭出納簿を利用し、最後の二百頁のところから頁を逆に私の長女益子が生れた時からで昭和二十二年四月二十八日から誌し始めたので頁が逆になつて居ります」旨述べておる。

押収にかかる染谷美代の日記帳(昭和二十九年領第十五号の一)やその日記の写真(記録第六冊四三〇丁四三一丁)によると、五月五日の部に「前田でたのまれて餠を持参す二升分」と記載せられておるので、前田方で染谷方に五月五日の節句の餠を頼んだことが認められるので前田栄次郎の前記供述は信用するに足るものと認められる。

(4) 「五月五日は雨が降つていた」と述べておるので、その日雨模様の天候であつたかどうかについては千葉県布佐町気象送信所観測菅沼達雄作成にかかる昭和二十五年四月二十日より同年五月七日までの気象資料中「天気及び記事の解説」と題する書面(記録第六冊二九丁)によれば五月五日は南寄りの風雨、一時曇となつて居るので、前田栄次郎の前記供述は信用するに足るものと認められる。

(5) 前田方で被告人に自転車を貸した日が五月六日であるかどうかについて同人は検察官に対し「自転車を貸した日が五月六日かどうか、はつきりしないが、新道の拡張工事が出来た後で、しかも、その四、五日後に私方で工事をした若い人達十二、三人が宴会をした事がある。被告人に自転車を貸したのは、それより少し後であることははつきり覚えておる」旨述べて居り、証人山田音吉の供述(昭和二十六年八月一日第六回公判調書、記録第二冊三六〇丁)によれば、川間村から茨城県岩井町に通ずる道路工事は、昭和二十五年三月二十八日より始め同年四月二十八日に終了したことが認められる。また押収にかかる道路工事日誌(昭和二十六年領第十九号の十四)によれば、右証言が真実であることが認められる。従つて前田方で被告人に自転車を貸した日は前記工事が四月二十八日に完成した後四、五日後に人夫等が前田方で宴会をした日より少し後の土曜日ということになり、大体五月六日頃であることが認定できる。

(6) 証人小川洋平の昭和二十六年六月十五日附第四回公判調書における供述記載(記録第二冊一〇九丁裏終りから四行目より一一〇丁裏終りから五行まで)によれば同証人は、

「五月六日の夜の事につき、隣家の長方の風呂の状況等を調べているうち、昭和二十六年一月十六日頃の午後八時頃本田君と話し合つておると、本田君は二十五年五月六日の夜は、ことによると自転車を借りて野田え遊びに行つたかも知れぬと申しました。どこから自転車を借りたかと尋ねると、前田さんから借りたと申しました。早速刑事係を呼び、本田が前田さんから自転車を借りたと申していることは言わず、前田栄次郎方え行き、昭和二十五年四、五月頃の夜、自転車を誰かに貸したことがあるかどうか調べてくる様下命しました。翌十七日刑事係の復命によれば、前田栄次郎方の供述では「私のところでは「トコロテン」を五、六月に売るが、昨年五月初頃雨が降つて「トコロテン」が売れなかつたことがあり、「トコロテン」は三日か四日しかもたないので、夜来た客に「トコロテン」を御馳走し、その人に自転車を貸したことがある。それは本田昌三である。と申したとのことなので、即時これを調書にとつて貰いました。これに当つたのは古田部長で、同人の調べでは自転車を貸したのは大体五月六日の夜という事になつた訳であります。

それから本田が五月六日の夜野田のパンパン屋え行つて遊んだと申すので、その野田のパンパン屋を調べたところ、その家では持つて行つた本田君の写真を見て、東京の靴屋といつてこの人は昨年三月二十日頃来たことはある。然し昨年五月初頃は来たことはないとの返事でした。次いで昭和二十六年一月三十日頃、本田君は私に「実は昨年五月六日の夜は古橋要蔵の家に遊びに行つた」と申しました。そして同年三月十三、四日頃に本田君は「こうして間違をやつてしまつた」と申し本件を自供したのであります」旨供述した記載がある。

(7) 証人吉田三弥の第五十三回公判調書における(昭和二十九年五月二十四日記録第六冊三八九丁以下)供述及び証人向後満雄の第五十五回公判調書における(同年七月十四日、記録第七冊二八丁以下)供述記載に徴すれば、前田方に赴き被告人に自転車を貸したことがあるかどうかにつき、前田たかや前田栄次郎に尋ねた際、同人等を誘導して被告人に自転車を貸した日時の点を昭和二十五年五月六日といわせたようなことがなかつたことが認められる。同証人等の供述記載によれば、前田栄次郎方で被告人に自転車を貸した日時は、昭和二十五年五月六日の晩の十時頃であることが認められる。

第四以上被告人の供述及び前田栄次郎の検察官に対する供述記載染谷美代の司法警察員に対する供述記載其他右掲記の証拠を綜合して見ると、被告人が前田栄次郎方から自転車を借りた日時は、昭和二十五年五月六日午後十時過であることが認められる。殊に留意すべきことは証人大塚宗太郎の昭和二十九年七月十四日当公判廷における供述記載(記録第七冊三九丁以下)によれば、同証人は昭和二十五年六月五日被告人宅を訪れた際、同家土間に、ほこりだらけになつて置いてあつた自転車を認めて、被告人の祖母に対し自転車を誰かに貸したことがあるかと質問したところ、その自転車はパンクして居て乗れないので誰にも貸したことはないとの返事があつたので、要蔵一家四人の殺害犯人が自転車で要蔵方に行つておることは司法警察員作成の検証調書に「鶏小屋の脇の処に自転車の跡があつた」旨記載されているので、被告人の嫌疑が薄らぎ、被告人に対する捜査が一時中断されて居つたところ、その後被告人のアリバイ関係を捜査中、昭和二十六年一月十七日被告人は司法警察員に対し、五月六日の晩前田栄次郎方から自転車を借りたことを自供するに至つたものであることは被告人の昭和二十六年一月十七日附司法警察員に対する第十回供述調書(記録第四冊一四二丁以下)の記載などから推認することができる。

(九) 公判調書記載の証人前田たか、同前田栄次郎の供述(記録第一冊一〇一丁以下一二九丁)の信用性についての検討。

第一信用性認定の資料

(略)

(A)  証人前田栄次郎の当公判廷における供述(昭和二十六年六月七日)(記録第一冊一〇一丁以下)

(略)

(B) 証人前田たかの当公判廷の供述(昭和二十六年六月七日)(記録第一冊一一六丁以下)

(略)

(イ)  昭和二十六年一月十八日附前田たかの司法警察員に対する第一回供述調書(記録第二冊一六四丁以下一八五丁)

(略)

(ロ) 昭和二十六年一月十九日附前田栄次郎の司法警察員に対する第一回供述調書(記録第二冊一五一丁以下一五八丁)

(略)

(ハ) 前田栄次郎の司法警察員に対する昭和二十六年一月二十二日附第二回供述調書(記録第二冊一五九丁以下一六三丁)

(略)

(ニ) 前田たかの司法警察員に対する昭和二十六年一月二十五日附第二回供述調書(記録第二冊一八六丁以下一九七丁)

(略)

(ホ) 前田たかの検察官に対する昭和二十六年四月二日附供述調書(記録第二冊一〇五丁以下二一八丁)

(略)

第二証人前田たか、同前田栄次郎の供述の信用性の認定

(1)  証人前田栄次郎は、検察官の尋問に対し、被告人に自転車を貸した日時につき、昨年の四月か五月かよく記憶していない、四月の下旬であつたと思つていると述べ、後に被告人に自転車を貸した日は、わからないと述べ、弁護人の尋問に対しては、被告人に自転車を貸したのは、木間ヶ瀬事件の二週間位前だと述べ、陪席裁判官から四月下旬と記憶する根拠につき尋ねられるや、夜桜を見に行つたと思つたからだと述べ、四月下旬には、桜が散るではないかと尋ねられるや、苦しまぎれに、八重桜だと述べたが、昭和二十五年の野田市清水公園の花見は、四月八日であつたことは、証人吉田三弥の当公判廷の供述記載に徴し明かである。殊に清水公園の八重桜は僅少で、花見をする程のものでないことは当裁判所に顕著である。また、証人前田栄次郎は、被告人に自転車を貸したとき、野田え行くといつたというので後日妻たかと話合つたとき妻は夜桜を見に行くのかと思つたと申したので自分も四月下旬と思う旨供述した記載があるが、前田たかが果してそう思つたとすれば、そのことは自転車を貸した当時夫婦間において、その話合があつたと考えられ、そのことを司法警察員に取調べられた際当然供述しておることと考えられるが、前記前田たか、前田栄次郎の各司法警察員に対する供述調書中には、その点の供述がなく却つて自転車を被告人に貸したのは木間ヶ瀬の四人殺の事件を聞いた前日の夜で昭和二十五年五月六日の夜だと明言しておる。被告人は公判の審理を受けるようになつてから始めて、前田方から自転車を借りたのは四月二十日頃または四月下旬頃と供述するようになつたもので証人前田栄次郎の前記供述は、その後になされたものであることに留意すべきである。

証人前田栄次郎の当公判廷の供述は同人の司法警察員に対する各供述調書及び同人の検察官に対する供述調書の記載に照して到底措信できないものと認められる。

(2)  次に証人前田たかは、検察官の尋問に対して、自転車を被告人に貸した日時は全然覚えがない、どう考えても木間ヶ瀬事件の前とも後とも、いい切れないと述べながら、弁護人の尋問に対しては、被告人が自転車を返しに来たのは事件(木間ヶ瀬事件のこと)が起きた日からずつと前であつたと述べ、また自転車を被告人に貸したのは昨年(昭和二十五年)四月二十日頃だとか四月二十日か二十五日頃だと述べておるが、同人の司法警察員に対する第一回供述調書(刑訴三二八条により提出)の作成せられた日時よりも五ヶ月も経過した後の昭和二十六年六月七日の当公判廷での証言において、日時を明確に供述しておる点は、社会通念に反することで、記憶の新しい昭和二十六年一月十八日附司法警察員に対する供述調書の記載によれば、同人は被告人に自転車を貸した日時につき、昭和二十五年五月六日午後十時頃であると明かに述べており、被告人が同家で飲食したことの詳細を記憶しておるばかりでなく、五月六日であることにつき、雨降りの五月五日の端午のお節句の附近であること、翌日は長男の学校が休みであつたこと、即ち土曜日の夜貸したこと、懐中電気を貸してくれといわれたが、壊われていて貸せなかつたこと、被告人は野田え行くといつて居りながらその方向とは反対の川間駅の方え行つたので不自然に思つたとか、自転車を返しに来た時間が早く、翌朝七時以前であつたこと等、当時の事を具体的に述べており、また前田栄次郎の司法警察員に対する第一回供述調書によると被告人に自転車を貸した日時は昭和二十五年五月六日の夜で木間ヶ瀬の四人殺のあつた前日の夜だとのべ同第二回供述調書では被告人に自転車を貸したのは五月五日の節句の前後の土曜日だと思う、五月五日には二男秀夫のお節句の餠を染谷産婆に頼み雨降りで先方から餠を届けられたと述べており、なお証人前田たかは、その証言中に司法警察員から最初に自転車の一件で取調を受けた昭和二十六年一月十八日当時、被告人が木間ヶ瀬事件で検挙されたことを知つていたような供述をしておるが、同人の司法警察員に対する供述調書の記載によると、昭和二十五年十一月二十八、九日頃、被告人の母が、前田栄次郎方に行き、昌三が何で警察に引張られたか、偉い人に頼んで聞いて貰いたいと前田たかに頼み、たかは夫栄次郎と相談の上、栄次郎から県会議員逆井隆二に依頼したことが認められ、その後栄次郎は逆井氏に逢わなかつたことは前田栄次郎の司法警察員に対する第二回供述調書の記載により認められる。右事実から見ると、前田たかは第一回に司法警察員から取調を受けた当時は、被告人が強殺事件の容疑で検挙されたことを知らなかつたので、自転車貸与の日時がそれ程重要性のあるものとは知らずに真実を述べたところ、その後前田たかの検察官に対する供述調書中「前記第七項」記載の如き事実があつたり、また、同人の司法警察員に対する第一回供述調書に記載されておるように、前田たかが秀夫出産の時被告人の母親に色々と面倒を見て貰つた事実があつたので、被告人一家の苦悩に同情した結果、供述に変遷があつたものと認定するを相当とするので、証人前田たかの証言は到底信用することはできない。

(十) 本件兇行の行われた、五畳間寝室の隣り八畳座敷の中仕切板戸の表から二枚目に接近した畳の上に、血液の飛沫が二ヶ所、附着したことは被告人の供述から見て本件犯行を認定する有力な証拠である。

第一この事実は次の(1)乃至(4)の証拠で認められる。

(1)  被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十四日附第五回供述調書(記録第三冊二六三丁以下二七五丁)の記載によれば、

被告人は「硝子戸を開けて大日堂の座敷に入り、硝子戸を元通りに締め、そろそろ中仕切り板戸の側に入り、表から二枚目の板戸を音のしない様に、静かに表の方え自分の体の入る位の幅に開けたと思います。また中仕切り板戸は大日堂の座敷え出てから足で閉めた」と供述しておる。

(2)  同昭和二十六年三月十八日附第七回供述調書(記録第三冊二八六丁以下二九七丁)の記載によれば、

被告人は「大日堂の座敷え入つて硝子戸を元通りに閉めました。座敷は真つ暗で何んにもわかりませんでしたので、両手を前の方に出して、少し腰をかがめて音のしないように、そろそろと中仕切の板戸の側え寄り、表から二枚目の板戸に両手をかけて、静かに表の方え開けました。丁度自分の体の入る位の幅に開けたと思います」と供述しておる。

(3)  被告人の昭和二十六年三月十九日附検察官に対する供述調書(記録第三冊三五丁以下四五丁)の記載によれば、

被告人は「要さんの座敷の方には電気がついていますが、大日堂の方は中仕切り板戸が締つているので、暗くてよくわかりません、腰を少しかがめて、そつと歩き表から二枚目の板戸を両手を当てて音のしない様に表の方え少し引きました。自分の体が入る位の幅だけ開けたのです。帰えりがけに電気のスイッチを消し、開けた儘にして置いた中仕切の戸の間から大日堂の方え出て開けてあつた板戸を足で動かして締めた」と供述しておる。

(4)  司法警察員作成の検証調書によれば

「同調書添付の写真中「被害者方寝室の状況」とある赤インキで書いた説明の個所に「奥八畳座敷との中仕切り板戸は四枚全部閉つてあつた」と記載せられており、また、同検証調書中「血液飛散の状況」と題する処に「別紙第四、八図に示す如く周囲の仕切戸、襖乾燥中の「オシメ」硝子障子並に奥八畳の間の仕切板戸の敷居等に米粒大の血液の飛沫が数個所に認められ云々」とあり、同調書添付の八図及び写真を見ると二枚目の仕切戸の敷居に三点、八畳座敷に二点の血液飛着が認められる。

第二以上の証拠を綜合して見ると、被告人が大日堂の八畳間から隣りの五畳間に入るとき表から二枚目の中仕切板戸を開けて入り、兇行後閉めたために右検証の際、その中仕切板戸が締つていたもので、二枚目の中仕切板戸を開けると、前記八畳の間から見ると、一枚目の板戸が内側になり二枚目の板戸が外側(五畳の間の方)になるので、一枚目の板戸には血液の飛沫が認められなく、二枚目の板戸の開いた処から八畳間の畳の上に血液が二個所飛んだものであることが認められるので、被告人の表から二枚目の中仕切り板戸を開けて入り逃げるときに閉めたと供述していることは真実であつて、本件犯行が被告人の所為であることを認定するに足る有力な証拠である。

(十一) 被告人が被害者要蔵や秀世を攻撃した時の態勢は、右被害者の受傷や血液の流溜、飛散場所等から見て、被告人の自白が真実であることを認めるに足る。

第一  この事実は次の(1)乃至(6)の証拠で認められる。

(1)  被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十八日附第七回供述調書(記録第三冊二八六丁以下二九七丁)によれば、

被告人は「大日堂の座敷え這入つて硝子戸を元通りに閉めました。座敷は真つ暗で、何んにもわかりませんでしたので、両手を前の方に出し、少し腰をかがめて音のしないように、そろそろと中仕切の板戸の側え寄り、表から二枚目の板戸に両手を掛けて静かに表の方え開け、丁度自分の体の這入る位の幅に開けたと思います。要さん等の寝ていた部屋の様子は、押入の方から和ちやん、要さん、赤ん坊、叔母さんの順に寝て居りました。少し腰をかがめて足音のしないように、そろつと這入り一番表の方に寝て居た叔母さんの枕元を通つて布団の横を廻り、足元の板の間に出たと思う頃に、叔母さんが目を覚しました。電気が、ついて居たので多分叔母さんが私の姿を見つけたようでした。私はお金の入つて居る「鼠入らず」の方を向いて居たのですが、直ぐ振り返つて「僕だよ」と小さな声で静かに声をかけました。すると叔母さんが布団を被ぶるようにして、かすれた低い声で「泥棒」といつたようでした。途端に「ピクット」してグーット頭にきて無我夢中で鉈を右手で取り出して「さつさつ」と布団をかぶるようにして寝ている叔母さんのそばえ行き布団の上から頭をめがけて鉈でぶんなぐりました。

私の顔には血が付かなかつた様に思います。洋服や「ずぼん」に血の付いたのも図に書いたとおりです」旨の供述記載があり、被告人は洋服と、「ずぼん」に血の付いた処を図面に記載して提出してあることが認められる。

(2)  被告人の検察官に対する昭和二十六年三月十九日附供述調書(記録第三冊三五丁以下四五丁)によれば、

被告人は「要さん達の寝ている部屋に這入りました。その部屋には電気がついていたので板の間にある「鼠入らず」から金をとろうと思い、その「鼠入らず」の近くまで行きましたところ、お内儀さんが目をさまし「泥棒」といいました。そこで私は「僕だよ」といいましたが、お内儀さんは、なお、布団を頭の方に、かぶる様にして一言か二言か「泥棒」といいましたので、私は頭が、かつとなり夢中で手に持つた鉈の刃で同女の頭を力一杯殴りつけました。その時要さんが目をさまして上半身を起こしましたので、同人の頭を鉈の刃だつたか、どうだつたかで二回位力一杯殴り付けました」旨の供述記載がある。

(3)  司法警察員作成の検証調書によれば、

「寝室は畳五枚敷であつて、その座敷に布団二組を敷き、全家族四名は西枕に押入の方から長男和成当五年、要蔵当三十五年、清当二年、秀世当三十年の順序で死亡しており、死者四名の掛布団は、ほぼ整然と掛けてあり、要蔵の掛布団上には血痕附着の大人用中古灰色作業上衣一枚あり、秀世の掛布団上には秀世が就寝に当り、脱衣したものと思われる「モンペイ」上衣一枚及び清のものと認められる血痕附着の「おしめ」二枚があつた。

右双方の掛布団を除き検するに、要蔵は上向となり、唇は腫れ上り、枕元には敷布団が頭部辺より畳上に亘り鮮血流溜し、秀世は、うつ伏せとなり髪は乱れ、顔面及び同部分に当る敷布団は鮮血にまみれ、枕元、畳上には前記同様多量の鮮血流溜し、要蔵の枕元に置かれた子供の玩具二個には何れも血液が附着しておつた。かくして敷布団及び掛布団ともに、要蔵の頭部辺と秀世の頭部辺にのみ血液が滲透し、或は血液の附着が顕著で、他の部分には殆んど認められない。

次に血液飛散の状況は、別紙第四、八図に示す如く周囲の仕切板戸、襖、乾燥中の「おしめ」硝子障子並に奥八畳の間との仕切板戸の敷居等に、米粒大程度の血液の飛沫が数個所に認められ、枕元の中仕切板戸については、秀世の方である表縁側の方から一枚目の板戸を除き、他の二枚目、三枚目、四枚目の中仕切板戸には何れも飛散せる血液が附着しておる

また、押入の上部より表側戸袋に向け竹竿を斜に貫き載せ、その竹竿に「おしめ」十数枚が乾してあつた。その「おしめ」の一部に血液の飛沫が附着していたのを認めた」旨の記載がある。

また同調書添付の写真によれば、要蔵は上向となり、秀世はうつ伏せとなつて死亡しておることが認められ、同調書添付の第三、四、八図によれば前記血痕附着の状況が認められる。

(4)  鑑定人上野正吉作成の鑑定書中第四章第二節の二には、

「検証調書の写真で、要蔵は仰臥位で頭を稍右側に傾けているのに対し、秀世は伏臥位で、左顔面を下にし、顔を右に向けている。即ち要蔵と秀世とは互に顔を向け合せたような状態である。勿論死体発見当時の状況がそのまま受傷時の状況とみることは出来ないが、要蔵の頭蓋骨折が主として左側にあるのに対し、秀世のものは右側にあることは受傷時も大体この姿勢であつたことを推定させる。後に絞頸されているが、これによる移動は余りなかつたのではないかと推測される。打撃の作用方向は、波及骨折は下は頭蓋底(前頭蓋窩)に延び、上は冠状縫合の広い離開を来しているところからみて、大体右外方から左内方に向つて打ち落されたものと推定される」旨の記載がある。

(5)  鑑定人古畑種基の昭和二十六年十月十七日附鑑定書によれば、

「要蔵の創傷の内(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)の六創は骨折を伴つているから、鈍器の強力な打撲によつて生じたものである。その際、被害者が、どの様な姿勢をしていたものかは、解剖所見のみからは、不明であるが、若し被害者が仰臥位に寝た姿勢にあつたと仮定すると、前記創傷の部位は、殆んど総て屍体の左半側に限られているから、加害者は被害者に向つて上右方から強く打ちおろしたものと考えられる。

秀世の創傷は、要蔵の場合と同様に、鈍体の打撲乃至擦過によつて生じたものである。その際被害者が、どの様な姿勢をしていたものかは解剖所見のみからは不明であるが、若し被害者が仰臥位に寝た姿勢にあると仮定すると、これらの創傷の部位が殆んど総て屍体の右半側に限られているから、加害者は被害者に向つて上左方から強く打ちおろしたものと考えられる」旨の記載がある。

(6)  被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十四日附第五回供述調書(記録第三冊二六三丁以下二七五丁)によれば、

被告人は「私の顔には血はちよつと位しか付きませんでしたが、右手は手の甲の上まで、血だらけになり左手は指から手の甲の半分位まで血だらけになつたと思います。その晩着て行つた洋服と「ずぼん」はその後二日程してから家の裏で内緒で自分で洗いました」旨の記載がある。

第二 以上の証拠を綜合して考えると、被害者要蔵は仰向に寝ており、秀世は要蔵の方に稍顔を向けて清を抱き寝して伏臥位に寝て居つたところを、被告人は先づ秀世の足許の方から鉈を右手に持ち幾らか体をかがめるような姿勢になつて秀世の右側頭部、頭頂部、顔面等に打撃を加え、要蔵に対しては同人が仰臥位に寝ていて上体部を幾分起した際に同人の足許の方から同人と向い合つた姿勢で右上方――から鉈を右手に持ち打撃を加えたものであることが認められる。血液は要蔵や秀世の枕元の方に殆んど流溜飛散し、同人等の足許の方には飛散して居ないことが認められる。従つて被害者の足許の位置にあつて打撃を加えた被告人には血液が多くかからず、顔に少しと右手の甲の上までと、左手は指から手の甲の半分位までつき、洋服の上衣の右袖と、ズボンに血が付いた旨の被告人の自白は、要蔵や秀世を攻撃した位置から見て事実と合致しておることが認められ、被告人の自白が、この点においても真実性が認められる。

(十二) 被告人が要蔵方え五月六日(昭和二十五年)の晩行つたと最初(昭和二十六年一月三十日)に供述してから自白するまでの被告人の供述を検討して見れば、被告人が五月六日の晩に要蔵方え行つたことは次の(1)乃至(11)の証拠により認定することができる。

第一右の証拠

(1)  被告人の司法警察員に対する昭和二十六年一月三十日附第十七回供述調書(記録第四冊一九三丁以下)によれば、被告人は、「五月六日(昭和二十五年)の晩は、前田さんから自転車を借りて砂南の要さんの家え行つたことが思い出せた。この話をすると要さんを殺した嫌疑が掛ることになるから今迄、ああだ、こうだと嘘をついて申訳ありません」と述べておるがこれは被告人の言として措信するに足るものである。このことがあつたので従来の被告人の主張が一貫性を欠いていたことが肯定される。

次に被告人は「その晩午後十一時二十分頃、要蔵方に行き板の間の上り口で腰かけたまま、要蔵等と話をして一時間位で帰つた」と述べて居るが、被告人の供述しているように要蔵と親子のように親密にして居たものならば、夜分遅く行つたことでもあるし、また要蔵と闇屋を共同でやつていたのを、やめてから一年も逢わなかつたのであるから、要蔵の方でも被告人を泊めて、いろいろその後の話も交わしたいのは人情上当然であるから一時間位で帰るという被告人の供述自体が変であるが、しかしこれは実際に行かないものを行つたように、強要させられたために、辻褄を合せたものと見るべきではなく、実際はその晩被告人は要蔵方え行つたのであるが、長時間、同家え居つたとか、泊つたということを述べれば、兇行の時刻とかち合つて抜き差しができなくなるので、一時間位で切り上げて帰つたと述べざるを得なかつたものと認むべきであるが、被告人は午後十二時半頃、要蔵方を出た旨述べたものの前田方から借りた自転車を返した時刻が午前六時過頃となつておることは前田栄次郎の検察官に対する供述により明かなる如く確定しておるため、その時間的空間を埋めなければ筋が通らないので、被告人は新宿の家え行つたとか上原信次方え行つたとか川島精米所え行つて米でも盗ろうとしたような嘘をいつたものと認むべきである。

右供述調書の中でも「おしめ」のあつた場所とか、玩具のあつた場所とか、茶呑茶碗の個数とか秀世の花模様の着衣等については、実際にその晩、その物を見た者でなければ想像では絶対にいえない筋合であるのに、これらの点を仔細に述べておるので、捜査官としては、被告人が現場の敷鑑濃厚と認めたであろうことは想像に難くない。

(2)  被告人は、司法警察員に対する同年二月二日附第十九回供述調書(記録第四冊二二四丁以下)において「昭和二十五年五月六日の晩、要蔵方を訪ねたことは間違いない」旨述べておる。

(3)  被告人は、司法警察員に対する同年二月五日附第二十回供述調書(記録第四冊二三四丁以下)において「五月六日の晩は午後十二時半頃に要蔵方をおいとまして帰つた」旨述べておる。

(4)  被告人は、司法警察員に対する同年二月六日附第二十二回供述調書(記録第四冊二四四丁以下)において、「五月六日、近くの前田さんの家で自転車を借りて要さんの家に行つた」旨述べておる。

(5)  被告人は、司法警察員に対する同年二月八日附第二十四回供述調書(記録第四冊二五三丁以下)において「五月六日の夜は要さん方え行き、要さんや、おばさんと一時間話したといつたことは嘘だ、表の戸袋の節穴からのぞいて中の様子を見て帰つた」旨述べておる。

(6)  被告人は、司法警察員に対する同年三月一日附第二十九回供述調書(記録第四冊二七六丁以下)において「昭和二十五年五月六日の晩は、砂南の要さんのところえ行つたことがはつきりした」旨述べて見取図までも書いておる。

(7)  被告人は、司法警察員に対する同年三月二日附第一回供述調書(記録第三冊一八二丁以下)において「昭和二十五年五月六日の晩は、前田方で自転車を借り、午後十時三十分頃出て無燈火で午後十一時三十分頃、要さん方え着いた」旨述べておる。

(8)  被告人は司法警察員に対する同年同月五日附第二回供述調書(記録第三冊二三七丁以下)において「五月六日の晩は、前田方で自転車を借りて要蔵方え行き、土間の雨戸を開いてもらい家の中に入り、五分か十分位立ち話をして帰つた」旨述べておる。

(9)  被告人は司法警察員に対する同年同月十五日附第六回供述調書(記録第三冊二八二丁表七行から裏五行まで)において、

「昭和二十五年五月六日の晩近所の前田さんの家から自転車を借りて要さんの家え行つた云々」と述べておる。

(10)  被告人は司法警察員に対する同二十六年三月十八日附第七回供述調書(記録第三冊二八六丁から二八九丁裏五行まで)において、

「昨年五月六日の晩前田さんの家え行き焼酎一杯半か二杯飲んで自転車を借りて十時半頃前田方を出て要蔵方え十一時半頃着いた云々」と述べておる。

(11)  被告人の検察官に対する供述調書(記録第三冊三六丁四行目から四四丁裏八行まで)において

「昭和二十五年五月六日の晩野田のパンパン屋え遊びに行きたくなり、自宅の自転車は空気が抜けるのでまずいから借りようと思い前田方え行き焼酎を一杯半か二杯飲み自転車を借り十時半頃出て要蔵方え行き翌朝前田さんに自転車を返した云々」と述べておる。

第二右を綜合しての認定。

以上の証拠から見ても、被告人が昭和二十五年五月六日の晩、古橋要蔵方え前田栄次郎方の自転車を借りて行つたことは間違いないことである。ただ要蔵方え行つたことは行つたが一時間位話して帰つたとか、五分か十分位話して帰つたとか戸の節穴からのぞいて帰つたとかと述べておる点は、犯行を否定するための必要上嘘をいつたものと認めるのが相当である。このように被告人の五月六日の行動が次第に一歩一歩と真実に近づいて捜査圏が圧縮せられ、昭和二十六年三月十三日以降の供述で自白するに至つたものでその自白は以上のような経過をたどつたもので偶発的なものでもなくまた誘導や強要によるものでもない任意の自白と認めるのが相当である。

(十三) 被告人が本件において取つてきた防禦方法を検討して見ると、被告人の本件強盗殺人の容疑は益々濃厚となる。証拠に基き順を追つて摘記して見ると次のとおりである。

第一右認定の証拠

(1)  被告人は昭和二十五年十二月四日附司法警察員に対する第一回供述調書(記録第四冊六一丁裏以下六二丁)において、鶴岡義男の移転先である東京都品川区大井鎧町の店に寝泊りするようになつてからは「毎朝一日も欠かさず、古橋一家のために仏壇にお茶を上げておる」、「古橋要蔵夫婦は良い人で和ちやんをだつこしたこともあり、夢にも犯人の顔を見せてくれれば犯人を捜したい気持だ」と述べ、恰も自己が犯人でないことを係官に印象せしめようと努めたが、この点は証人小川洋平の供述によれば全然嘘であることがわかつて被告人の主張が崩れた。

(2)  被告人は昭和二十五年十二月九日司法警察員に対する第五回供述調書(記録第四冊九四丁以下)において、古橋要蔵一家四人殺しの嫌疑を晴らすために三点を主張した。第一点は古橋要蔵と自分は共同出資で闇屋を営み、親子のような間柄であるから同人等を殺す理由がない。第二点として昭和二十五年五月六日当時は金銭に窮していなかつた。第三点として昭和二十五年五月六日は午前七時二十分、川間駅発大宮駅廻りの東武電車で、東京都北区稲付町の後藤伝三郎方に行き、午後、中村貫一方に行き夕飯を御馳走になつて、午後九時五十分川間駅着の終電車で帰り、川間駅前の鶴岡靴店に寄り、一時間ばかり話をして午後十一時頃、自宅に帰つて寝たから五月六日の行動や所在は、はつきりして居ると述べているが、昭和二十六年一月六日附の司法警察員に対する第八回供述調書においては、被告人は右第三の主張に対し、昭和二十五年五月五日はお節句で雨が降つており、後藤方で柏餠を頂き、町屋のマルヤス産業の二階で稲本シゲ、村山弥太郎、中村秀子等から集金横領の件で責められ、被告人は集金は酔払つて紛失したとか大宮駅で奪われたとかといい逃がれをし、その晩は村山や中村秀子と約一時間半も口論し、結局使込みを認めて念書に署名しその晩は秀子方え泊めて貰い、翌五月六日は朝早く目を覚まし、その儘中村秀子方を出て赤羽の後藤方え行き、午前中は同家に居り昼食を済し後藤と二人で中村貫一方に行き一時間位して後藤方に戻り、後藤の子供が明日幼稚園の遠足に行く金がないといつたので、後藤と二人で浦和へ行き野尻靴店から二千円集金して後藤に千円やり、同人と北浦和駅で別れ、被告人は大宮駅附近で焼酎二杯飲み遊廓を廻つて午後八時三十分大宮駅発の東武電車で川間駅前午後九時五十分で下車し、駅前の鶴岡靴店え寄り、午後十一時頃帰宅して就寝した旨述べて右第三の主張と反する主張をなし、また、右第二の金銭に窮して居なかつた旨の主張も後藤なか、稲本シゲの各検察官に対する供述調書の記載や被告人の司法警察員に対する昭和二十六年一月二十七日附第十七回供述調書において、被告人は昭和二十五年五月六日当時の所持金は僅か六百円しかなかつた旨の自供等から見ても当時金に困つていたことが明かになり被告人の主張は遂に崩れ、第一点についても証人小川洋平の供述記載によれば、被告人が要蔵と共同の闇屋をやめるときには、何かおもしろくない事があつてやめたようなことも窺われるので、これまた崩れ去るに至つた。

第二右に対する認定

以上のように本件犯行の前日たる昭和二十五年五月五日の晩被告人はマルヤス産業の二階で、村山や中村秀子と一時間半も口論し念書まで差し入れその晩は中村秀子方に泊めて貰つた事実があり、本件強盗殺人事件はその翌日の、でき事であるから、被告人の記憶は相当明瞭でなければならない筈である。また、被告人の供述どおりとすれば、被告人と親子のように親密な要蔵一家四人が殺された前日の行動であるから強く脳裏に残つておつて、一貫した主張が出来なければならない筈であるのに、その主張に確固不動の一貫性のないのは、被告人を本件強殺事件の犯人と目すべき一の容疑といわなければならない。

(十四) 被告人の次の(1)乃至(8)の言動から見て真犯人の疑いが濃厚である。

(1) 被告人の司法警察員に対する昭和二十六年一月十七日附第十七回供述調書(記録第四冊一九三丁以下)によれば、被告人は五月六日の晩江戸川の堤防で一服した時「誰かに追いかけられるような気がして体がぶるぶるし胸がドキドキした」と供述した記載がある。

(2) 同供述調書及び被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月二日附第一回供述調書(記録第三冊二二四丁)によれば、被告人は「五月七日(昭和二十五年)朝自宅で一人で朝飯をすましたが「その時になつても何だか誰かに追つかけられて居るような、おつかない気持がした」旨の供述記載がある。

(3)  被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月十四日附第五回供述調書(記録第三冊二七五丁)によれば、 被告人は「永い間、要さんのことを話したのですが、何辺も申したように私と要さんとは親子のように懇意に一緒に闇屋をやつて面倒を見て貰つたのに飛んでもない間違いをやつてしまい、腸を千切られるような思いがします」との供述記載がある。

(4)  被告人の司法警察員に対する昭和二十六年一月十九日附第十一回供述調書(記録第四冊一五三丁裏以下)によれば、被告人は昭和二十五年五月七日(犯行の翌日)鶴岡方から午後三時頃自宅に帰ろうとし、鶴岡方を出て、中里寄りの県道で中村三郎と会い、中村が、いま菰をぶら下げて解剖しているから、本田君も見に行つたらどうかといわれた時、被告人は中村に対し「何か証拠があるだろうか」と聞き、中村が「指紋も何も無かつたらしいよ」と述べた旨の供述記載があり、被告人が如何に犯罪の発覚に強い関心を持つて居たかがわかる。

(5)  伊藤シゲの検察官に対する昭和二十六年四月七日附供述調書(記録第二冊二二三丁)によれば、被告人は三回位同家え泊つた後に、伊藤方を訪れた際、同人に「俺はその内に逮捕状が来るかも知れない。逃げやしないけれども明日当り新聞に出るかも知れない、俺は死んぢやつてもかまわない。」というようなことをいつて淋しそうにしていた旨の記載がある。

(6)  後藤なかの検察官に対する昭和二十六年四月七日附供述調書(記録第二冊三二二丁以下)によれば同人は五月九日に被告人が後藤方え行つたとき、木間ヶ瀬の四人殺し事件が毎日新聞に出たことを話し、その後一週間位たつてから被告人が同家え行つたとき、被告人はその事件につき自分が嫌疑をかけられ、この間警察で調べられたと申し大分気にしていたようで、「本田さんは殺されたその日には何処か、よそえ泊つていたような事を申していた」ような気がする旨述べた記載がありアリバイがあるような事を述べていることが認められる。

(7)  証人大竹巧の昭和二十六年十一月二十一日第十二回公判調書における供述(記録第四冊三一丁以下)によれば、被告人は十糎位の藁半紙に、四人の名前を書いたものを朝晩、正坐して、おがんでおり、同人がうなつて居るのを二、三度聞いたこともあり、また青酸加里とか、青とかがうまく手に入らないかといつていた。自分は本田君が夜うなされたり、青を欲しがつたり、天井板を調べたりしていたので、強殺をやつていると思つた。本田君は「自分は警察では自白したけれども今度裁判所では自白を引つくり返したから頑張つちやうんだといつておつた」旨述べておる記載がある。

(8)  証人山下栄一の前同日公判における供述(記録第四冊四〇丁以下)によれば被告人は同人に対して「実は俺も強殺だ、俺は断然仙台行きだ」と述べた旨の記載がある。

(十五) 被告人は本件犯罪現場の敷鑑が濃厚である。

この事は次の(1)乃至(3)の証拠により認められる。

(1) 被告人の検察官に対する昭和二十六年三月十九日附供述調書(記録第三冊四五丁裏)の記載によれば被告人は「私がその晩、初めて気が付いたものは、玩具でありました。セルロイドのような物で丸つぽいものでありました」と供述しておるが、相沢勝の司法警察員に対する昭和二十六年三月三日附供述調書(記録第二冊一四五丁以下)の記載及び証人小川洋平、同藤崎源之助の証言(記録第六冊一八六丁以下及び二〇六丁)等に徴すれば、右玩具は本件要蔵等四名殺害事件の数日前に、秀世が相沢方から買つたものであることが明かである。被告人の自供によれば、同人は昭和二十三年十一月頃から翌二十四年三、四月頃まで、要蔵と共同で闇屋を営み、同人方えしばしば出入し同家に五、六回泊つた事があるが、その後要蔵方には行かなかつたことが認められる。殊に被害者清は昭和二十四年六月二十日生で、被告人が要蔵と別れた後に生れたものであるから、どんな玩具が要蔵方にあつたものか、ただ単に子供があるから玩具があつたろうと思い想像では玩具の色とか大さ、所在場所等の具体的なことは述べられない筈である。しかも捜査官において、その点につき被告人を誘導尋問をすれば真相が掴めなくなるから誘導尋問をしなかつたことは証人小川同藤崎の各証言により、先に認定したとおりであるから、実際現場に臨んだ者でなければ知つておる筈がないのに、被告人が前記玩具のことを知つておることは現場の敷鑑濃厚であり、本件犯人と目すべき有力な証拠である。

(2) 被告人の検察官に対する前記供述調書の記載によれば、被告人は「紐で二人を縛り終つてから布団の脇にあつた「おしめ」で、鉈の血や自分の手についた血を拭きました」と供述しておる。また司法警察員作成の検証調書の記載によれば「秀世の掛布団の上には清のものと思われる血痕附着の「おしめ」二枚があつたことが認められる。要蔵方には小さい子供が居るので「おしめ」のあることは想像でもいうことができるが、その「おしめ」の存在した場所までも明言することは現場に居つた者でなければできないと認めるのが相当である。然るに被告人はその「おしめ」の所在についてまで良く知つておるのでこの点についても敷鑑濃厚である。殊に血痕附着の兇器を「おしめ」で拭いたということは、実際に拭かない者では想像ではいえない筈である。鑑定人野田金次郎の鑑定書によれば押収の「おしめ」(昭和二十六年領第十九号の八)に血痕が附着しており、その血液班の型、大さ等から見て、鉈によつても、かかる所見を呈すると考えられる旨の記載がある。

(3) 前記(2)の検察官に対する供述調書の記載によれば、被告人は「おかみさんは、まだ死に切れない様に少し動いて居りましたので、鉈を布団の側に置き、そこにあつた細紐で同女の首を巻きつけ締めました。それで同女は動かなくなつてしまいました。その紐の続きですか或は同じ紐が二本あつたかはつきり記憶がありませんが、同じ様な紐で要さんの首を巻きつけ締めつけました。同人は紐で締める前、すでに動きませんでした。巻きつけて縛つた紐は、要さんのもおかみさんのも、そのままにして置きました」と供述しておる。要蔵及び秀世の首を細紐で巻き付け締めつけてあつたことは司法警察員作成の検証調書の記載や同調書添付の要蔵、秀世の写真、鑑定人宮内義之介作成にかかる鑑定書の記載に徴して明かである。かように首を締めた紐が細紐であつたとか、その所在場所が布団の側にあつたとか、細紐を秀世の首に巻きつけたので同人が動かなくなつたとか、要蔵は細紐で首を締める前に、既に動かなかつたというような具体的な事柄は、実際に現場において犯行を実施したものでなければ、単に想像などで述べることのできるものでないことは明かである。然るに被告人は被害者要蔵や秀世が首を細紐で締められておることについての認識が十分で真犯人と目すべき有力な証拠である。

(十六) 一見して金のなさそうな古橋要蔵方を襲つたこと、小さい子供までも殺し、要蔵と秀世の首に紐を巻きつけて蘇生を不可能にしたことは、被害者要蔵一家の内情を、よく承知しており、子供にまで深い面識のある者で、子供を持つた経験のない者の犯罪と推認するも決して不相当でない。被告人は、この条件に合致することは次の証拠により認められる。

第一、右の証拠

(1)  証人小川洋平は、昭和二十六年六月十五日附第四回公判調書(記録第二冊一〇二丁表末行から二行目より同丁裏一行目まで)において、「古橋方附近には酒屋、煙草屋等金のある家があるに拘らず、一見金のなさそうな古橋要蔵方をおそつた点から見て、犯人は古橋要蔵方に面識のある者と考えた」旨の供述記載がある。

(2)  高島悦子の司法警察員に対する昭和二十六年三月三十一日附供述調書(記録第一冊一九九丁以下)の記載(記録第一冊一九九丁より二〇三丁まで)によれば、

同人は古橋秀世の義妹に当り、同家には正月とか、お盆のときなどに行つて一年に二、三回位、泊つたことがあり、百姓の休みの日などには、月一回位は昼間だけ必ず遊びに行つたから、秀世の家の様子はよく知つておる。最後に行つたのは、昭和二十五年二月十五日で、秀世の話では一ヶ月の生活費が七千円位かかるといつておつた。要蔵さんは殺される当時は、買出しに七千円位は持つて歩くと思う。米一俵買うにも七千円位だから。またまとまつた金は秀世の黒いハンドバックに入れ、それを更にチヤック付のレザーの鞄に入れ、更に草色の様な風呂敷で包んで押入れの中に向つて右側の上段に置いておつた。秀世は金を貯めて家を建てるのだから、使わないようにしておると話したこともあり、殺される前の年の八、九月頃米麦を沢山買うのに二、三千円足りないから貸してくれといつて、ハンドバックを出した時に百円札を沢山だし、その厚さが一寸位あつたので、二万円位はあつたと思う。貯金をするなどということはいつておりませんでした。平素は今話したハンドバックに金が入れてあるようでした」との供述記載がある。

(3)  司法警察員作成の検証調書の記載や同調書添付の写真によれば、古橋要蔵方には多額の預金をした通帳が無かつたことが認められる。

(4)  昭和二十七年二月二十日附第十六回公判調書(記録第五冊六二丁裏以下)の記載によれば、被告人は「古橋要蔵と共同で闇屋を営んでいた時、要蔵が平素買出し用に所持していた金は、三万円位だと思う」旨述べており、また被告人の司法警察員に対する昭和二十六年三月二日附第一回供述調書(記録第三冊一八二丁以下)の記載によれば、被告人は「昭和二十三年十一月頃から二十四年三、四月頃まで、古橋要蔵と闇屋を共同でやり、その間五、六回同家に泊つたことがある」旨述べておる。

第二右に対する認定

以上の証拠を綜合してみると、被告人は、古橋要蔵方え出入して同家の経済状態、特に同家の金銭貯蔵関係とか要蔵が平素多額の金を所持していたことを十分知つておつたと認めるのが相当である。また、前記司法警察員作成の検証調書の記載や、同調書に添付の写真によれば秀世のハンドバックは口をあいて空になつていたことが認められる。また要蔵等四人を殺害後要蔵や秀世の首を紐で締めて生き返ることのないようにしたり、幼少の子供を一緒に殺害しておることは、被害者との面識が深く、子供を持つた経験のないものの犯罪であると推認することは決して不当でなく、被告人はこの条件に合致する。

(十七) 被告人は前記(ハ)の(5)(6)(10)に記載の如く昭和二十五年五月六日の夜野田市のパンパン屋え遊興に行つた旨供述しておるが右の事がなかつたことは次の証拠により認められる。

第一右の証拠

(1)  辰已屋え行つた事があるか否か及びその日時について

(イ)  栗原光子の検察官に対する昭和二十六年四月十二日附供述調書(記録第二冊三二四丁以下)

(略)

(ロ) 証人栗原光子の昭和二十六年十月九日附第十回公判調書記載の供述の要旨(記録第三冊一六三丁以下)

(略)

(ハ) 鈴木クニの検察官に対する昭和二十六年四月十二日附供述調書(記録第三冊一八〇丁以下)

(略)

(ニ) 証人鈴木くにの昭和二十六年十月二十四日当公判廷における供述(記録第四冊一二丁以下)の要旨

(略)

(2) 新川屋え行つたことがあるか否か及びその日時

(ホ) 証人平野百合子の当公判廷における昭和二十六年十一月二十八日附供述(記録第五冊九丁以下)

(略)

(ヘ) 証人橋本光江の当公判廷における昭和二十六年十一月二十八日附供述(記録第五冊一三丁以下)

(略)

(ト) 証人吉田トシの当公判廷における昭和二十九年十一月五日附供述(記録第七冊九七丁以下)

(略)

(チ) 被告人の昭和二十六年六月七日附第二回公判調書における陳述(記録第一冊一一三丁裏以下)

(略)

(リ) 被告人の昭和二十六年七月十一日附第五回公判廷における供述(記録第二冊三一二丁以下)記載

(略)

第二右に対する認定。

以上の証拠によつて見ると辰已屋の女中をして居た栗原光子は検察官に昭和二十六年四月十二日述べたところでは、東京の靴屋と称する二十才位の人、それは被告人に間違いない、その人が一回来たことがあるが時期はお花見の始まる前で、昭和二十五年三月二十日過から終り頃迄の間であると述べ、同年五月六日の晩は自分のところえは泊り客はなかつた旨述べており、また、同人は当公判廷で証人として昭和二十六年十月九日述べているところによると、弁護人の尋問に対し最初は被告人が来たのは昭和二十五年三月六日頃で、三月末か四月初頃には来ないといい、次に、花見時分なんですねと尋問されるや、花見時分ですと答え、また、五月初に来た記憶はないかとの尋問に対しては、四月末ではないですかと答え、また被告人が来たのはお花見時分に間違いないかと尋問すると、お花見過ぎです。五月の初ですね、と答え、裁判長の尋問に対しては、五月の月初だと答え、また、鈴木くにが辰已屋え来た日時については、五月の節句の前日で、被告人が来たのはそれから四、五日後だと述べ、更に弁護人の問に対しては、被告人が証人のところえ来たのは、花見を過ぎた頃だと述べ、裁判長が大勢客が来るので被告人が何時時来たかはつきりしないのか、と尋ねると、ええと答え、検察官が検察庁で、証人の述べた事は間違ないかと尋ねるや、左様ですと答え更に裁判長が検察官に対して五月六日にはお客はなかつたといつているがそうですかと尋ねると、それは泊り客がなかつた意味だと述べ、更に弁護人の「証人は赤いセーターは昨年三月初から五月中旬迄着ていたと申したが、被告人が昨年五月初か十日頃来たとすると、赤いセーターを脱ぐ直前ということになるが、どうか」との尋問に対し「なんでも寝る時、布団二枚かけたのですよ、寒いから、被告人が来たのは薄ら寒い時でした」と述べ全く尋問者の異るに従つて供述が変つていて、真相を掴むのに困難であるが、この質問応答中信頼するに足るものは右「 」内の供述ではないかと思う、何となれば二人で寝た時、上にかけて直接身体に感じた感覚によつて知覚した事実を卒直に表現したものであることが、うかがわれるからである。思うに証人のように知識の程度の低い者に対しては、年月日を基礎にして物事を尋ねるよりも春夏秋冬や着衣の種類などから尋ねた方が比較的真相が得られることは実験則の示すところである。また、被告人の前記(1)の供述によれば被告人が辰已屋え行つた時には女は一人であつたと述べており、これを前記栗原光子の証言と対比するときは辰已屋の女中の鈴木くにが辰已屋え帰つてきた日は、五月五日の節句の前日であるから、被告人が五月六日に辰已屋に行かなかつたことは明かである。そうなると被告人が辰已屋え遊びに行つたのは、四月以前ということになるから、栗原光子が検察官に述べたことが大体において正確と認められる。鈴木くにの検察官に対する供述や当公判廷における供述では、被告人は五月六日同女のもとえ泊らなかつたことが認められる。

また新川屋の関係を見ると、証人平野百合子は、昭和二十五年春頃紺の背広を着た酔つぱらいが、新川屋え来たことがあり、としちやん(吉田トシ)と遊んだ、寒い頃で右証人が羽織を着ていた頃で、その客は、青つぽい新しい自転車で来たと述べ、被告人は右証言に対してそれは、自分が鶴岡義男方の自転車で行つたのだと述べ、被告人は本件の第十二回公判廷の供述において五月二十日頃鶴岡の自転車で野田え女遊びに行つたと自供しておるので、本件とは無関係であるといわなければならない。しかし証人橋本光江は被告人を見たことがないと述べており、また証人吉田トシは被告人が来たかどうかわからないと供述しておる。右のような次第で被告人は本件強殺事件当時は勿論それ以前にも新川屋え行つたことがなく辰己屋え行つた時に鶴岡の自転車で行つたものと認めるので相当である。

被告人は昭和二十五年十一月二十七日、本件強殺事件とは別の窃盗、同未遂、強盗殺人の容疑で逮捕せられ、昭和二十六年一月十七日第十回司法警察員に対する供述調書で昭和二十五年五月六日の晩は、前田の家から自転車を借りて野田え遊びに行き、翌朝七時半頃前田方え自転車を返したと主張し、以つて古橋要蔵一家四人殺害事件のアリバイを主張したもので、このアリバイが立つか否かは被告人の本件容疑を解決する唯一の重大な鍵ともいうべきものであるから、被告人としては五月六日の晩は共同で闇屋をしていた要蔵一家四人が殺害された日であるから実際半年位前の五月六日に野田え遊びに行つた事実があるならば、登楼したパンパン屋の名前は勿論、その店の構造、店え登楼するときの玉代の交渉、相手の女の服装、女と寝た座敷の模様、畳の新旧関係敷布団や、かけ布団の模様、枕の恰好とか、床に就くとき自分の洋服やズボンは、どこえ置いたとか、相手の女が床につく時の服装とか、何回関係したとか、その時間的の関係、床に入つておつた時の女との問答とか、交合の姿態、方法、相手の女の顔や髪の形、鼻や目、耳口の恰好、色が白いか、黒いか、首が長いか短いか、体臭があつたかどうか、腋下に毛が生えていたか、その粗密長短、乳の恰好、女の腰巻とかズロースを、はいて居たか、その色合とか、陰阜の関係、陰毛の有無粗密、大小縮毛か直毛かの別、その他飲食を取つたかどうか、朝早く帰つたのであるから、その点についての女との問答、店を出るとき女が送つてくれたかどうか、店の戸が締つていたかどうか、締つていたとすれば誰が開いてくれたか、相手の女の名は何といつて郷里はどこか、親兄弟があるかどうか、その店え来た時期とか、そこえ来る前は何処に居たとか等、普通一般の登楼客が女と交わされるような事柄につき、当然或程度具体的な記憶があつてそれらの点の主張ができなければならないことは、経験則上当然であるから、被告人としては以上のような諸点を主張し、相手の女との対質を求め、場合によつては身体検査迄も要求して真偽を確定することも困難な事ではない。然るに被告人は前掲(チ)の裁判長の質問に対し「前田から自転車を借りて野田の遊廓え行つたが、野田の遊廓が二軒あつて、その時はどちらえ遊びに行つたのは覚えなく、相手の女の名前もわからないし、ただ相手の女の年は二十二、三才だと述べるのみで、相手の女の特長についての主張ができないのみならず、自転車で行つた時は新川屋か辰己屋か、どの遊廓え上つたかもわからないと答え、また検察官の質問に対しては「新川屋」や辰己屋え行つた日時は四月ですと答えるのみで、四月の何日頃かも判然答えられず、相手の女は二人とも年は二十二、三才で新川屋の女は年は二十四、五才で背は普通で、五尺一寸位、肥つている方で言葉になまりがあつたが東京弁でなく、千葉でもなくわからない、顔は丸顔だとしか主張できず、辰己屋の女については二十二才位で背は高くない方で、普通、身体つき、顔つき、何れも普通だと述べ、大体推量的な事しか答えられず、それ以上に何か特長づけるような事柄につき具体的主張のできないのは、要するに被告人は五月六日の晩は野田のパンパン屋え行つていないことを裏書きするものと認めざるを得ない。

殊に若い男が女遊びに陽春の頃行つたとすれば特段の事情のない限りは朝は、そう早く起きられるものでないのに被告人は前田方え午前六時過頃自転車を返しておる点から見ると、野田の遊廓を出たのは、午前五時頃となる、いわゆる春眠暁を覚えない頃の遊興客として、はなはだしく不自然である。

若し被告人の右(イ)の供述が登楼後一年も経過しておるのでそんな詳細な記憶を要求するのは無理で、社会通念の許さないものであると主張するならば、それは思わざるも甚しいものといわなければならない。何となれば被告人は昭和二十六年一月十七日司法警察員に対する第十回供述調書において、このパンパン買いの件につき本件容疑に対するアリバイとして主張しており、最も重要なアリバイであるから、真に五月六日の晩に野田市にパンパン買いに行つたとすれば、常にそのことが念頭になければならないことは当然であると認むべきであるからである。

以上説明したとおりで被告人は昭和二十五年五月六日の晩は野田市の遊廓に行かなかつたものと認定するを相当とする。

(十八) 被害者古橋要蔵、秀世、和成、清の蒙つた創傷の部位、程度、死因並びに本件押収の鉈(昭和二十六年領第十九号の四)にて要蔵、秀世、和成の右創傷を与えうること及び足にて強く踏みつけて、清の蒙つた創傷を与えうることは次の(1)乃至(12)の証拠により認められる。

第一右の証拠

(1)  鑑定人宮内義之介作成にかかる昭和二十五年六月二十六日附鑑定書の記載(但し同鑑定人は後に秀世の(イ)の裂創の長さ約一八・〇糎とあるを一〇・八糎と訂正)。

(2)  押収にかかる鉈(昭和二十六年領第十九号の四)。

(3)  宮内鑑定人作成にかかる昭和二十七年八月十八日附鑑定書の記載。

(4)  証人宮内義之介の昭和二十六年十一月二十八日附第十三回公判調書中の次の尋問に対する供述記載(記録第五冊一丁より一五丁まで)。

(略)

(5) 鑑定人古畑種基の作成にかかる昭和二十六年十月十七日附鑑定書(但し本鑑定書中古橋清の創傷を生ぜしめた兇器に関する記載を除く)。

(略)

(6) 鑑定人古畑種基の作成にかかる昭和二十七年二月十八日附鑑定書。

(略)

(7) 鑑定証人古畑種基の昭和二十七年三月二十六日附第十七回公判調書中の次のとおりの尋問に対する供述記載(この尋問は同人作成の昭和二十七年二月十八日附鑑定書に関してなされたものである。)(記録第五冊九八丁より一〇八丁裏終りから二行まで)

(略)

(8) 鑑定人古畑種基作成にかかる昭和三十一年六月二十三日附鑑定書。(但し本鑑定書中古橋清の創傷を生ぜしめた兇器に関する記載を除く)

(略)

(9) 証人古畑種基の昭和三十二年十一月二十七日附第七十三回公判調書中の次の尋問に対する供述記載(記録第七冊五六五丁より五八四丁まで)。

(略)

(10) 証人宮内義之介の昭和二十六年六月十二日附第三回公判調書中の次の尋問に対する供述記載(記録第二冊一八丁裏終りから二行目以下二〇丁末行まで)。

(略)

(11) 被害者古橋清の被害方法についての検討。

(A)  被告人は司法警察員、検察官、家庭裁判官に対し、本件殺人の被害者中「清」については、同人の腹の上に乗つかつて踏み潰してしまつた旨自供しておるのでこの点について検討する。

(イ)  鑑定人宮内義之介作成にかかる昭和二十五年六月二十六日附鑑定書によると、(以下略)

(ロ)  鑑定人井上剛作成にかかる昭和三十一年二月七日附鑑定書によると、(以下略)

(ハ)  鑑定人上野正吉作成にかかる鑑定書(一四丁裏)によると(以下略)

(ニ)  証人宮内義之介の昭和二十六年十一月二十八日附第十三回公判調書中の次の尋問に対する供述記載(記録第五冊六丁裏六行以下)。

(略)

(ホ) 証人古畑種基の昭和三十二年十一月二十七日附第七十三回公判調書中の次の尋問に対する供述記載。

(略)

(ヘ) 被告人の「清」殺害方法についての供述を検するに

(1)  被告人の昭和二十六年三月十四日附司法警察員に対する第五回供述調書(記録第三冊二七〇丁)によれば、被告人は「それから、また布団の上を赤ん坊の寝ておる所えきて、赤ん坊の腹の上え乗つかつて両足で、ぐんぐんと踏みつけてしまいました、兎に角その時は頭がポーットして何が何だか無我夢中でした」と供述した記載がある。

(2)  被告人の昭和二十六年三月十九日附検察官に対する供述調書(同記録四二丁裏)によれば、被告人は「それから布団の上から赤ん坊の腹のあたりをめがけて両足で、ぐいぐい踏みつけました、赤ん坊は仰向きになつており死んだ様でした」と供述した記載がある。

(3)  被告人の少年として昭和二十六年三月二十二日附家庭裁判所裁判官に対する供述調書(同記録五一丁裏)によれば、被告人は「それから赤ん坊の腹を両足で四、五回踏み潰しました、赤ん坊は死んでしまつた様でした」と供述した記載がある。

(B) 古橋清殺害方法についての認定。

前記宮内鑑定人作成の鑑定書によれば清の胸腔や腹腔臓器などには死因と目すべき創傷はなく、死因は頭部打撲による脳障害となつておる。従つて腹の上から足で踏みつけて殺したものでないことは疑の余地はない。被告人は清を踏みつけたときは頭がポーットして何が何だか無我夢中でしたと述べておるところから見ると、布団の上から清の腹の辺を最初踏みつけても、清は極度に恐れ、咄嗟に、本能的に布団の中の方え、もぐつたかも知れないし、また清は生後十一ヶ月の幼児で体も小さいから、腹の辺と思つて踏みつけても、実際には足が頭部に当つたものかも知れない。而して頭部を足で踏みつけても宮内鑑定書記載のような清の頭部の創傷のできることは、前記井上鑑定人の鑑定や証人宮内、同古畑の各供述により明かである。なお、前記上野鑑定書によると、清の頭蓋骨々折の状況は、和成の場合より更に単純で、大体上下の方向に加わつた圧力によつて出来た撓曲骨折であることが認められる。以上のことを綜合して清の殺害方法は、被告人が足を以つて清の頭部を強く踏みつけて殺害したものと認定するを相当とする。

(十九) 以上(一)乃至(八)、(十)乃至(十八)の事実認定に供した各証拠及びその各証拠に基き認定した事実。

(二〇) 証人小川洋平の昭和二十六年六月十五日附第四回公判調書における供述記載(記録第二冊九八丁裏以下一三六丁)。

(二一) 同証人の昭和二十八年七月十六日附第四十回公判調書における供述記載(記録第六冊一六六丁以下二〇一丁)。

(二二) 証人藤崎源之助の昭和二十六年九月七日附第八回公判調書における供述記載(記録第三冊三〇丁以下一一八丁)。

(二三) 同証人の昭和二十八年七月十六日附第四十回公判調書における供述記載(記録第六冊二〇三丁以下二一九丁)。

(二四) 証人小西太郎の昭和二十九年五月二十四日附第五十三回公判調書における供述記載(記録第六冊三四八丁以下三七〇丁)。

(二五) 証人吉田三弥の同日附公判調書における供述記載(同記録三八九丁以下四一七丁)。

(二六) 証人石井喜代二、同三谷栄、同畔蒜義一の各昭和二十六年十月九日附第十回公判調書における各供述記載(記録第三冊一四六丁以下一七五丁)。

(二七) 証人向後満雄の昭和二十九年七月十四日附第五十五回公判調書における供述記載(記録第七冊二八丁以下三七丁)。

(二八) 証人大塚宗太郎の同日附公判調書における供述記載(同記録三九丁以下四九丁。)

(二九) 鑑定人古畑種基の昭和二十七年一月二十三日附第十五回公判調書における供述記載(記録第五冊三九丁以下五〇丁)。

(三〇) 証人宮内義之介の昭和二十七年九月五日附第二十六回公判調書における供述記載(記録第五冊二〇三丁以下二一四丁)。

(三一) 同証人の昭和三十年七月二十日附第六十七回公判調書における供述記載(記録第七冊三五七丁以下三六三丁)。

(三二) 証人藤崎源之助、同福地栄、同田丸良太郎、同岸明司の昭和三十年七月六日附第六十三回公判調書における各供述記載(記録第七冊三三二丁以下三四九丁)。

(三三) 当裁判所及び受命裁判官の各検証調書。(昭和二十六年七月七日附(記録第二冊二三〇丁以下二四七丁)同二十八年七月二十四日附(記録第六冊二三六丁以下二五五丁)同三十二年八月十七日附(記録第七冊五四二丁以下五五〇丁)。

(三四) 押収にかかる工事人夫出勤簿(昭和二十六年領第十九号の十五)。

(三五) 同道路工事現場平面図(同号の十六)。

(三六) 同千葉県警察部鑑識課現場臨検録抜萃(昭和三十年領第二八号)。

(三七) 昭和二十九年六月十七日附検察事務官関口孝雄より鳥飼検事宛の「証拠品受入状況調査方法について報告」と題する書面(記録第七冊五二丁以下六一丁)。

(三八) 昭和二十六年三月四日附司法警察員向後満雄より東葛地区署長宛「捜査方に就て」と題する書面(記録第七冊一七丁以下一九丁)。

(三九) 押収にかかる「鉈」(昭和二十六年領第十九号の四)。

(四〇) 同「オシメ」(同号の八)。

(四一) 同紐(同号の九、一〇)。

(四二) 押収にかかる掛布団二枚、血痕附着の人絹にこにこかい巻一枚、要蔵、秀世、和成、清の各頭蓋骨(昭和二十八年領第十一号の四、五、六、七、八、九、一〇)。

(四三) 同紺サージ上衣一枚、黒ラシャズボン一本、紐二本及び秀世の花模様の着衣、要蔵の着衣(昭和二十六年領第十九号の五、六、九、一〇、一一、一三)。

(四四) 同古橋要蔵、同秀世、同和成、同清の頭蓋骨(昭和二十八年領第十一号の七、八、九、一〇)。

以上の証拠を綜合して認める。

(一) 鑑定人上野正吉作成にかかる昭和二十八年三月十四日附鑑定書についての検討。

(略)

(二) 右鑑定書に対する判断

上野鑑定人は古橋要蔵の頭蓋骨について

(1)  後頭部左側正中の左方四・五糎を中心とする完全に円形の直径約四・三糎の極めて軽微な外板の陥凹骨折のあること。

(2)  左側頭部左乳様突起の上方約六糎の部(右(1)の前方八・五糎の部)を中心とし(1)と同性状の陥凹半円の骨折のあること。

(3)  左こめかみから頬骨弓の部(右(2)の前方約七糎を中心とする部分)を中心とし前縁と上縁とは円孤を画いた完全な陥没骨折のあること。

を指摘し、また

秀世の頭蓋骨について

(1)  右側頭部右乳様突起の前上方七糎の部を中心として側頭鱗の部に直径四・三糎の半円の穿孔骨折のあること。

(2)  右側頭部の、ほぼ中央で右(1)の骨折の上方に接し、上方、後方は骨折線、前方と下方は縫合の完全離開によつて境界された、ほぼ梯形の大骨折で、その前後径が四・五――五・〇糎あること。

(3)  右側頭部後部で前記(2)の後方七糎の部に長さ四・五糎の外板の浅い骨亀裂があり、この骨亀裂の下方二・二糎の部に凸を下方に向ける長さ約三・〇糎の孤状の骨亀裂のあること。

を指摘し、

また、これら頭蓋骨には刃器による骨創傷の存在を認めないから、右両名の成傷の兇器としては、作用面の円形な直径四・三糎の重量あるもの、即ち金槌、玄能の類であると鑑定しておる。よつて上野鑑定人の指摘する箇所に円形又は半円の骨損傷があるか否かを要蔵、秀世の各頭蓋骨について検査して見ると、要蔵の頭蓋骨後頭部左側正中の左方に円形の直径約四・三糎の極めて軽微な外板にひびの入つた損傷は認められるが、これについて古畑鑑定人は、昭和三十一年六月二十三日附鑑定書第二章第二節(G)項において「左頭頂鱗後端部に径四・三―四・四Cmの略正円形を呈する骨亀裂があるが、その一周は不完全で変化も殆んど外板に限られ、内板は前方部で僅かに二・五Cmの範囲に亘り、やや陥入している程度である」と鑑定し、また第五章第二節において「損傷(G)は非常に特殊な形状を呈し、恐らく外力の直接作用によるものと思われるが、極めて軽微な主として外板のみの亀裂で、必ずしも兇器の作用面を表わすものとは解釈されない。殊に一周が不完全であり、内板の性状からいえば、中央部にある外力が加わつてできたものといえる」と鑑定しておる。また同鑑定人は昭和三十二年十一月二十七日第七十三回公判において証人として出廷し、裁判長の「要蔵の(G)の損傷はほぼ円形の細い線がありますが、この線の太さは同じでなく渦巻状で中に入つて、終いには細い所もあり一様でないが、ここに円形のものが直接作用したとしても、このようになるか、間接の作用でできたものとした方がよいか」との尋問に対し、同証人は、「亀裂がだんだん細く弱くなつているから、直接円い打撃面を持つた物で出来たとは考え難く、むしろ外の間接的な打撃が作用した破裂骨折であるとした方が妥当です。

本件と直接関係はありませんが、円い兇器が与えたことが確実な事件の資料を調べて見ると、直接兇器が当れば陥凹骨折か、陥没骨折を起すのが普通です」と供述しておる。

鑑定人宮内義之介は要蔵を解剖した医師であるが、その作成にかかる昭和二十五年六月二十六日附鑑定書には、右の骨損傷についての記載もなく、その部分の表皮に損傷があつたか否か皮下出血があつたか否かについても何等の記載がない。右により円形の打撃面を持つ兇器が右箇所に作用してできた損傷とは認められない。

また秀世の右側頭部右乳様突起の前上方七糎の部を中心として側頭鱗の部に半円の欠損があるが、これについて古畑鑑定人は前記鑑定書第二章第三節(A)項において「右側頭窩中央に下方に凸部を向けた半円形の骨欠損があり、水平長約三・八Cm上下高約二Cm内外で下端部には内方に陥入した小指頭の内板を認める」と記載してあり、第五章第二節において「一見複雑な損傷(B)(A)の骨折は前記前額部側頭下窩部の損傷を生起した隅角に対応する別の隅角により生じたものとして容易に理解できる」と鑑定しており、円形の打撃面を持つ金槌等によつてできたものでないことが認められる。

以上認定した二箇所以外の上野鑑定人の指摘する半円とか孤状の骨折については、前記古畑鑑定人作成の鑑定書の記載や同人の証人として前記第七十三回公判において供述した記載に照らして見れば上野鑑定人の鑑定は必ずしも正確な判断とはいえない。殊に要蔵の「上顎正中口唇部にある骨折」について、要蔵の上顎骨に直接当つて検討して見ると、鑑定人上野正吉作成にかかる鑑定書の写真、一によつても明かな如く、この部の損傷は向つて左側の創面は長さ約二・五糎の直線形で縁辺の鋭利な恰も鉈の刃のような稜が当つて出来た平滑な切創状を呈し、右側は一部骨折を起し粗を呈している。〔昭和二十七年三月十七日附鑑定人中館久平作成の鑑定書中四丁裏(1)中に「押収の鉈の刃側で頭部を強打した場合には、骨に生じた割創の創面の一部は平滑であるが一部は骨折を起し粗である場合が多い」との記載がある。また、鑑定人井上剛作成の昭和三十一年二月七日附鑑定書中六二丁裏末行より六三丁末行までの記載によれば、「要蔵の頭蓋に看られる第三の外傷性異常は上顎骨の前面正中位に惹起されおるものでこれは外に向いて楔形に拡がつたところの深き溝状を呈する縦の骨截痕となりおれり、この截痕椽の骨折は、全く直線状に形成されており、その最深部は口蓋に存する切歯孔の前壁迄に達することを認めしめ骨の離断面も亦一般に鋭利平滑となりおれり、従つて、こは明かに打ち込み創(割創)なりと認むべきものなり」とある。なお、証人井上剛の昭和三十一年四月十一日附第六十八回公判廷における供述によれば「要蔵の鼻の下の歯のところの骨折は刃器の打ち込みをした結果惹起されたものである旨の記載がある。(記録第八冊四四二丁表終りから三行目より同丁裏七行迄)、また、同証人は「円い固形物に当らなくとも、平たい物、例えば壁とか柱とかに当つても頭が固いのであるから、結局固い物が当つたと同じ結果になり円形の骨折が生ずる可能性がある」との記載がある。(同八冊四四五丁)〕

また司法警察員作成の検証調書添付の要蔵の写真によれば、同人の口唇部に挫創が認められる。

右様な損傷から見て、この部に作用した兇器は直線の稜を持つものと認められる。もし要蔵の上顎骨に作用した兇器が直径四・三糎の円形金槌のようなものが平面的に当つたとすれば、その打撃部の前歯が何本か損傷しなければならないのにその形跡はない。従つてこの部に作用した兇器は円形の打撃面をもつものとは到底認められない。

また秀世の右側頭部より後頭部にかけて存する裂創について見るに、宮内鑑定人作成の昭和二十五年六月二十六日附鑑定書の記載によると、この創傷は「前額部正中より右方約七・〇糎の略髪際に発し後方に向う長さ約一八・〇糎(宮内鑑定人は後に至り一〇・八糎と訂正した)の裂創にして縁辺の諸処に裂創状をなせる小切込みを存す。縁辺不規則鈍にして挫滅状を呈し、創内に諸処組織架橋し」と記載されておる。司法警察員作成の検証調書添付の秀世の写真(七三丁)によればこの創傷は余り鋭利でないやや刃物が当つて切れた様な形をしており損傷が長くできておるところや頭髪の切れ具合表皮の切れた恰好等から見ると、この部に作用した兇器は円形のものではないことは明かである。

(法令の適用)

法律に照すと、被告人の判示所為中、第一の住居侵入の点は刑法第百三十条、罰金等臨時措置法第二条、第三条に、窃盗の点は刑法第二百三十五条に、第二の業務上横領の点は各同法第二百五十三条に、第三の強盗殺人の点は同法第二百四十条後段に、各該当し、右住居侵入と窃盗とは手段結果の関係があるので同法第五十四条第一項後段第十条に則り重い窃盗罪の刑に従うべく、また、強盗殺人の点は一個の行為で数個の罪名に蝕れるから同法第五十四条第一項前段第十条に従い、重い古橋要蔵に対する強盗殺人の罪に従い所定刑中死刑を選択し、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるところ後者につき死刑を選択したので同法第四十六条第一項本文に則り前者の刑を科せない。よつて被告人を死刑に処すべく、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項により全部被告人の負担とする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 舟田誠一郎 白井博 中川文彦)

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